フランス革命の時代から20世紀半ばまでの宗教と政治・社会の在り方を、美術でたどる「ライシテからみるフランス美術――信仰の光と理性の光」展(宇都宮美術館2025年12月21日まで。三重県立美術館は26年1月17日~3月22日)が開催中だ。本記事では副題にある「光」のメタファーにも注目して、フランス独特の政教分離の在り方「ライシテ」を中心とした宗教と政治の関係性、その歴史を振り返り、近年の宣教論にも触れながら、美術展の一端を紹介する。
(記事最後に同展チケット[宇都宮美術館]プレゼント応募要項があります。抽選で3名様、締め切りは11月17日※記事全文を読むには登録が必要です)

現代の「光」はどこから
私たちを取り巻く「光」はコントロールされている。この記事は電子版限定の記事なので、読者は発光したスクリーンで、読んでいるだろう。実物とは違う、平面的に複製された文字、画像を、それとして認識している。照明のある部屋で読んでいるかもしれない。自在に明るさを調整できる光を操っている。そんな光を所有できるようになったのは、このわずか200年足らずのことだ。
因習を打ち破ること、理性を中心とすること、そんな啓蒙(En・light・ment)という光(light)が広く社会を照らし出したのも200有余年前、1789年フランス革命のころだ。それ以前の光は、ただ冥蒙(めいもう)とした暗闇だけがあったのだろうか。むしろ、あまりに強すぎる光が、当たり前のようにあった、ということだったのかもしれない。
たとえばブルーメンベルク著『真理のメタファーとしての光』※1は、古代の光の観念(存在としての光、形而上学的な光、内面の光…)から出発して、啓蒙への道筋、さらに調節可能な機械の光に囲まれ、「強制的な光学に支配された状況を現代人に向けてますます整えていく」様を論じる。
「光」のせめぎ合いを美術で見る
今回のライシテ展の副題は「信仰の光と理性の光」だ。啓蒙によって「信仰の光」は、「理性の光」で根絶されたわけではない。理性は万能ではなく、「信仰」に頼らざるを得ない領域はある。理性は「世界という迷宮にあって」(ブルーメンベルク)、道を踏み外すこともあった。「信仰の光」も時として危うく、混乱と抑圧をもたらしたこともあった。もちろんそれらは「真理」そのものの問題ではなく、表層レベルのことかもしれない。今回の展示は、信仰(宗教)が理性(世俗)に置き換わった、という単線的な提示はしていない。むしろ、宗教と世俗がせめぎ合い、その間で美術は様々な表現をしてきたことが明らかになる。
宗教と世俗の関係を美術で見るとはどういうことか。実際、美術史的に見て、宗教美術の研究、美術と政治権力の関係の研究はそれぞれされてきたが、「その両方に同時に視線を向けながら歴史的な展開を追った研究は未だない」(同展示図録、藤原啓学芸員論文)という。特にフランスにおいては、ライシテは、共和制の根幹にかかわる概念であり、この視点でフランス美術をたどることには意義がある。
同展で扱われる、宗教、世俗、美術の関係史をおおまかに見ると、革命時期に世俗が強まるが、やがて、世俗自体が権威を持ち、「聖性」を帯びるようになる。美術は、宗教と世俗の権力に奉仕してきたが、19世紀以降、徐々に制度としての美術が整いはじめ、自立し、美術自体の「聖性」を持つようにいたる。宗教もまた時代の中で、形を変えて聖性を盛り返したり、苦難を経験したりする。同展での作品は20世紀半ばまでだが、歴史の変遷を通して、戦争、排外主義、政治と宗教、万博といった現代につながるテーマも見えてくる。フランスのみならず、現代の日本、世界に訴えかける内容だ。
前置きが長くなるが、作品を見る前に、もう一つ、「信仰の光」を理解するため、聖書における光について見ていきたい。
聖書の「光」
原著がフランスで刊行された『聖書思想事典』※2によると、「光と闇とを分けることが創造主の最初の行為」(創世記1・3~)であり、「救済史の終わりにくる新しい創造においては、神自身が光となる」(黙示録22・5)。
光は、被造物であるとともに、神そのものをさす。旧約の預言書では、光の到来を語り、新約では、イエス・キリストが光と啓示される。さらにイエスの弟子たちも「世の光」となる。この光の説明は、プロテスタント福音派の『聖書神学辞典』※3でも同じだ。
革命の「光」
展示室に入ると、革命によって追いやられた聖職者たちを描いたスケッチが並び、次に目に入るのは、ナポレオンだ。

《墓からよみがえるナポレオン》は、墓から出てきたナポレオンに後光が差す。まるで復活した神の子のようだ。
革命は教権を否定し、数々の混乱が起きたが、その後に統治したナポレオンは、コンコルダ(協定)を交わし、カトリックと、プロテスタント、ユダヤ教を公認の宗教とした。
ライシテの世界的権威ジャン・ボベロは、現代にいたるまでのライシテを三段階の時期に区分している(①フランス革命後にナポレオンと教皇が結んだコンコルダによる複数公認型の宗教的多元主義の時代[1905年まで]、②19世紀後半のライック[脱宗教的]な制度の推進によって準備され、1905年の政教分離法成立によって完成した同法に基づくライシテの時代、③1970年代以降、1989年のイスラム・ヴェール事件など、しばしば対イスラームの文脈で語られる、より複雑な多元主義の中でアイデンティティーが模索される時代)※4。
政教分離の背後には、プロテスタントの影響もある。フランスにおいて、ユグノー(カルヴァン派)たちとの戦争があった。ナント勅令で、ユグノーの権利が認められたものの、後に撤回。ユグノーはオランダに逃れた。英国人哲学者のロックもオランダに滞在し、『寛容についての手紙』で、政教分離の在り方を示した。すでに50年ほど前に、アメリカの植民地において、政教分離が実践されていたが、ロックやヴォルテールの寛容論などが、ライシテに影響を与えていった※5。ちなみに先述のボベロはユグノーの神学部で学んだ研究者だ。
問題が再燃したのはユダヤ人問題に発展し、賛否の論争になった「ドレフュス事件」だった。『宗教VS国家』※6は、マイノリティーへの憎悪があったことに注目。「ユダヤ、フリーメイソン、プロテスタントの陰謀」を当時のメディアがはやし立てたという風潮があったのだという。
このころ政府やカトリックに向けた風刺画(カリカチュア)が描かれた。ひょうきんなものもあれば、グロテスクなものもある。

カリカチュアの伝統はやがて、『シャルリ・エブド』をめぐるテロとそれに対する抗議運動にもつながるか。
光の当たり方も変わってくる。
学術や中東現地との交流の発展で、キリスト教も象徴的なものから、時代考証や現地調査を踏まえた写実的なものが登場

また聖性は日常化する。

1905年に政教分離法が制定されてまもない、07年に出品された作品《ピエトロ》。これは初代教皇のペテロを描いたものだが、後光はなく、日常的な光が描かれている。

1850年|株式会社IKI(山梨県立美術館寄託)
ミレーのマリア像の右に、有名な《種をまく人》。聖書の種まきのたとえを連想させるとともに、描かれた当時の農民の状況を力強く描くという、聖・俗の両義性がみられる。
理性への反動として、異世界、幻想世界に思いを向けた作家たちにも注目している。
「巨大な目」の幻想的な絵画で知られるルドンのヨハネの黙示録の石版画集もあった。

黙示録の各場面だが、か細い線、陰影で描かれる。これが信仰的なものかどうか、議論があるという。
芸術が独自の聖性を追究し、聖書的な象徴を使わずに、何らかの聖なる存在を描くようになる。

今回の展示ではモネの絵画が印象的だ。なんら特徴のない山だが、背後に崇高な光を感じられる。
宗教と世俗のせめぎ合いの美術史だが、聖書的なイメージが乏しくなることに、さみしさを覚えるだろうか。しかし展示後半に別の展開がある。
(次ページで世俗化をめぐる近年の議論、ライシテの現代性、宣教論からみた世俗化、美術と教会、展示後半のポイント、など。約4200字。以降要登録)
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