◇  ◆  ◇
2011年に脱北したB氏は、現在韓国で医師として働く。北朝鮮では、「教化所」と呼ばれる強制収容所に収監された経験を持つ。
─北朝鮮は徹底した身分社会だが比較的恵まれた身分だったので、6年間医学教育を受け、1996年に卒業し医師として働いた。「苦難の行軍」(※)が始まった年だ。
医者とはいえ、月給だけでは1キロの米しか買えないので、他の商売を始めて稼いだ。父が農村部に移ったのに従い付いていったが、当時は都市部に食糧がなく、多くの人が農村、漁村に流れていって、そこでおこぼれにあずかっていた。当然食糧には限界があった。私が住んでいたケソン市でも、餓死した子どもや大人の死体が町中に並んでいた。最初は同情心で見ていたが、自分もいずれそうなるという恐れから、顔をそむけるようになった。
主人はヤミ市の商売をしていたが、時々抜き打ち検査があり、ある時摘発された。家長が捕まった家は党を追放され最下層の身分になる。私は夫の代わりに自分が処罰を受けるようにし、教化所に収容された。
そこは極度に過酷な環境で、収監されている人の8割は虚弱状態、うち3割は明日にも死ぬような状況だった。食料は乏しく、飼育している家畜の排せつ物の中に混じっているトウモロコシの皮など、食べられそうなものを見つけて食べるなど、日常茶飯事だった。
便所掃除などに回された虚弱者たちは、家畜の排せつ物の中にネズミが落ちて死んでいるのを見つけて生で食べるようなこともしていた。教化所では、与えられた食事だけを食べるのが規則だったが、ネズミでも食べれば虚弱状態が改善されるので、医師である私はせめてゆでて食べるよう指導した。
九死に一生を得て釈放され家に戻ったが、家には何もない。二人の子どもは栄養失調。この子たちを生かすためには何でもしなければと、中国にいる親戚を頼ってヤミの商売を始めたが、今までのようにはいかず、そこから逃げ出して中国に行った。

この福音を家族や同胞に伝えなければ

中国に来たものの仕事も無く、子どもを残してきた罪悪感から酒におぼれる中で、、、、、、、

※1990年代に多数の餓死者が出たとみられる深刻な食糧危機に際して北朝鮮国内で使われたスローガン。朝鮮戦争休戦後最大規模となる飢饉と、経済政策の失敗が、食糧危機の原因とされる。

2023年02月12日号07面掲載記事)