第10回:ひきこもり(HIKIKOMORI)問題に教会はどう関われるか

木原 活信 同志社大学社会学部教授

「ひきこもり」という言葉が最近話題になっている。厚労省の定義では「様々な要因の結果として社会的参加を回避し、原則的には6か月以上にわたっておおむね家庭にとどまり続けている状態を指す現象概念」となっている。要は、精神疾患や病気が直接的原因ではなく、半年以上、仕事や学校に行けず家(部屋)にこもり、ほとんど社会と交流がない状態のことを言う。
オックスフォード英語辞典にはHikikomoriという奇妙な項目が登場した。当初social withdrawalなどと同義としていたが、日本の「ひきこもり」が欧米のそれと比して特異で、精神疾患を伴わない状況が顕著ということからHikikomoriという表記になった。Karaoke、Harakiri、Samuraiなどと同様で日本由来の言葉となっている。近年では韓国も同様の現象があり、東アジアの儒教、家族主義、同居に起因するとの指摘もある。
ところで、内閣府のひきこもりの実態調査(2018)によると、その総数は、若年層(15〜39歳)で54万人、中高年層(40〜64歳)は61万で、合計100万人を超える。斎藤環氏(精神科医)によると、その数は実際もっと多く、特にコロナ禍の影響で今後更に増え続けると懸念する。ちなみに、文科省の調査(2022)によると、その「予備軍」とも指摘されている小中学校の不登校は近年急増し約25万人である。
当事者は好き好んで部屋にこもっているわけではない。できれば、学校に行きたい、就労したい、社会に出て友人と交流したいと望みつつ、それが諸種の理由でできなくなって一人で孤立して苦悩している。期間が長いほど社会からの孤立は深刻となり、回復が困難となり、対策に苦慮する。これらに対して、「引き出し業者」まで現れている。当事者を無理やり外に連れ出し、怪しげな矯正施設のようなところで就労(訓練)させ、「社会人」「学生」にさせようとするのである。なかには金銭目当ての悪徳業者もいて問題を複雑化させ、当事者や家族を更に苦しめて、社会問題化している場合もある。
国や自治体は、ソーシャルワーカーなどと協力して、当事者のことを温かく受け止めて肯定し、安心感の持てる関係性や受け皿を作っていくことが模索されている。私がかつて勤めていた東京都立大学大学院の教え子の芦沢茂喜さんはソーシャルワーカーとして山梨県でこの問題に先駆的に取り組んでいる。当事者へ寄り添いつつ、そのありのままを受け入れ、忍耐強い取り組みを描いた著作『ひきこもりでもいいみたい』(生活書院)が話題になり、メディア等でも頻繁に取り上げられている。

居場所となり、耳を傾け、隣人となる

それでは、キリスト教界はこれにどのように対応しているのであろうか。一例を挙げると、京都の丹波新生教会の園部会堂(新島襄が開拓)で宇田慧吾牧師や教会員たち、地域の関係者たちがNPO法人そのべるを結成し、ひきこもり、不登校問題に正面から取り組んでいる。教会の会堂が当事者たちにも開放され、気軽に集える大切な居場所となり、本来の教会(エクレシア)の姿に近づいているのかもしれない。教会が、近隣のひきこもり当事者やその家族が集い、その痛みや苦悩に共感して「そこにただ居る」ことのできる居場所となっているからである。その場所では、互いに支え、支えられる関係が大切で、生きるうえで互いに大きな力となっている。布教目的のいわゆる「宗教臭さ」はなく、何か不思議なあたたかい空間がある。このような事業を開始したきっかけは、宇田牧師によると、自らも高校生のときに「深く悩む経験」があり、不登校やひきこもりという孤立に苦しむ方々への強い共感があったという。苦しむ者の居場所となり、その呻(うめ)きに耳を傾けて、地域の良き隣人となっていくうちに、教会全体も活気づき、予期していないことであったが礼拝参加者も増えたという。

《連載》コンパッション 共感共苦 ― 福祉の視点から