本紙提携の米クリスチャニティ・トゥデイ紙が4月10日に掲載したショーン・チェン氏の証しを、翻訳して掲載する。

ショーン・チェン Sean Cheng クリスチャニティ・トゥデイ編集者、執筆家、華僑宣教師。米メリーランド州在住。著書に、科学とキリスト教を題材にした『万有之上(すべてのものにまさり)』がある

私は中国の南西部にある四川省カンゼ・チベット族自治州で生まれた。生後わずか数日のうちに、私は省都の成都に送られた。妹と私は祖母に育てられた。両親はいずれも医者で、共産党によって、都市から高い山をいくつも隔てた、ひなびたチベット族居住地に送られた。そこでは、子どもはまともな教育を受けられなかった。
ごく幼い頃、私は悟った。大学に入るには良い成績を取らなければいけない。そして、寒くて貧しい山間部に住むのを避けなければいけない。私は勉強に精を出し、良い成績を挙げた。

16歳の時、私は中国の一流大学である復旦大学で化学を学ぶため、上海に移った。時は1980年代、中国が世界にその門戸を開いた後のことだった。当時、中国の大学はかなりリベラルで、自由思想に寛容だった。復旦大学は、最も「西洋化した」大学の1つと言われていた。
大学時代、私は徐々に政府の共産主義思想教育に反抗するようになり、西洋の思想や文化をもっと学びたいと思った。だが、私の世界観は長年の無神論教育の影響を受けていた。自分は何も信じないと考え、宗教には全く関心がなかった。

卒業後、私は成都に戻り、ポリマー科学者として研究所で働き始めた。退勤後はよく麻雀をやり、深夜まで賭けに興じた。だが、心の内はむなしかった。1989年、天安門での学生運動弾圧の後、私は悲しみと喪失感に打ちひしがれた。(成都の街中でも、同じような暴力的鎮圧を目撃した。)私は深い暗闇と絶望に陥った。私の心にある問いに答をみつけられず、人生は無意味で、耐えがたい苦痛に満ちたものになっていった。私は中国を出て、アメリカの大学院に進もうと決意した。そこで、必要な試験の準備を始めた。
その頃、私は哲学や宗教の本を読みあさり始めた。キリスト教について私がみつけた本は、おおかたキリスト教について否定的だったが、その一方で私は、成都中心部を流れる錦江のほとりの「English Corner」で、数人のクリスチャンと友だちになった。

 

アメリカ到着

1990年、私は小遣い稼ぎを目論み、イギリス人の探検隊と共に通訳として、四川省、甘粛省、青海省のチベット族地域にある長江の源流に向かった。一行30名のうち27名がクリスチャンだった。ホバークラフトを使って長江をさかのぼり、人里離れたチベット族の村々に行き、そこで慈善活動を行った。私は1か月以上、チベット高原で彼らと行動を共にした。
私たちは危険な道路を旅し、吹雪や土砂崩れに遭い、その他の荒天を経験した。一行の中国公式受け入れ企業の第一の関心事は自社の利益であり、文化、政治、自然の面での困難に加え、この企業が物事をさらに難しくした。だが、イギリス人クリスチャンたちは逆境にあっても祈り、喜びをもって神を礼拝し、テントの中でギターに合わせて賛美歌を歌うのを私は目撃した。チベット族に対する彼らの純粋で無私無欲の愛に、私は感動した。いつしか私は、彼らのような生活と信仰にあこがれるようになった。

1992年夏、私はアラバマ大学から大学院入学許可の手紙を受け取った。私は学生ビザ申請のために4日4晩、成都のアメリカ領事館の外で待ち続けた。私の入学許可を証明するI-20書類は、大学が最初に郵送した時は行方不明になった。私は非常に高額な国際電話をかけて、再発行を要請しなければならなかった。書類は、私が領事館の外に並んで3日目にようやく私のもとに届いた。
1992年8月、私はアメリカに着いた。ポケットに入っていたのは42ドルだけ(これが私の全財産だった。航空券は親戚が買ってくれた)。私は自由、民主主義、幸福、科学的業績という「アメリカンドリーム」の追求を始めようとしていた。

だが、私がみつけたのはキリストにある救いだった。私は学内の中国語聖書研究グループに入り、ほどなくしてクリスチャンになった。私は車を持っていなかったので、中国人の友だちに頼んで、買い物などに連れて行ってもらっていた。聖書研究グループのクリスチャンたちは手助けを申し出てくれて、金曜の夜は聖研に連れて行ってくれた。もっとも私は中華料理を目当てに通っていたのだが。
初めは創造論や進化論について、クリスチャンとよく議論した。だが、クリスチャンの友人たちが示してくれる親切に、私は徐々に心を動かされていった。特に、キリスト教の愛と、共産主義教育を通して私が吸収した「我々は敵を憎むべきだ」という教えとが、あまりに違っていたことも心動かされた要因だった。私は気づいた。彼らが献身的な愛を実践することができるのは、神への信仰によるのだと。その同じ信仰によって、あのイギリス人クリスチャンたちはチベット族を愛するようになったのだ。
私はまた、私自身の心の中にある憎しみや暗い感情、そして私が救いを必要としていることに気づいた。1992年10月のある日曜日、私はタスカルーサ第一バプテスト教会の座席に座っていた。牧師はキリストの十字架と神の愛についての伝道説教を語っていた。私は感動して泣いた。牧師が、キリストを信じたい人は講壇に進み出るようにと勧めた時、私は立ち上がり、前に歩いて行った。牧師は私の両手を取って祈った。私は渡米してわずか2か月後に、この教会で受洗した。

 

インターネット伝道

1995年に修士課程を卒業した後、私はアメリカの化学産業で働き始めた。最初は科学者として、その後は研究開発マネージャーとして働いた。仕事のために、私はアリゾナ州に移り、その後ニュージャージー州、そしてメリーランド州へと移った。それと並行して、私は霊的成長をとげ、地域の華人教会で奉仕するようになった。
これも1995年のことだが、私は黎明期の中国語インターネット上でキリスト教について文章を書き始めた。まもなく私は、中国国内外に住む未信者の中国人知識層と、オンラインでやりとりするようになった。このことを通して、私はネット上の初代中国人キリスト教擁護論者の一人となった。
当時、オンライン活動をしているクリスチャンはほとんどいなかったが、黎明期の中国語インターネット上に立ち上がった初期のフォーラムの中で、キリスト教は最も盛んに議論されていた話題の1つだった。科学とキリスト教をめぐる議論は、1996年および1997年の「中国語インターネットニュースのトップ10」入りした。私はこのリストに挙げられた少数のクリスチャンの一人だった。

1996年、私は華人クリスチャン・インターネット・ミッションという働きの最初のボランティア・チームの一人となった。私たちは中国に住む人々向けに、団体ホームページにキリスト教擁護論と伝道的な素材をアップロードした(中国政府はまだ、検閲という「巨大なファイアウォール」を築いていなかった)。私はこの他に個人として、Jidian’s Linksという福音のウェブサイトを1998年に立ち上げた。(Jidianは私のペンネームで、中国語で聖書の人物ギデオンを意味する。)
1990年代の末、多数の中国語オンライン・フォーラムが人気を集めた。私を含め、クリスチャンはそうしたプラットフォームで活発に発言し、キリスト教信仰について中国に住む知識層と対話した。影響力ある多数の中国人知識人が、そうした会話に参加していた。

2000年代から2010年代にかけて、より便利なインターネット・プラットフォームが一般的になった。ブログ、Douban、Weibo、Zhihu、WeChatなどがそれだが、中国人クリスチャンはすぐさま伝道目的で、それらを活用し始めた。私はブログを書き始め、徐々にキリスト教擁護論だけでなく、文化や時事問題にもフォーカスを広げていった。2012年、私のブログ記事を収録した書籍『探求と回帰』が中国で出版された。この年の中国共産主義青年団の公式機関誌記事において、記者は私のことを名指しして、中国青年団員が注意すべき、最大級の影響力を持つ「インターネット宣教師」の一人だとした。

 

守りと摂理

だが、中国における私の伝道はオンライン執筆活動にとどまらなかった。中国政府が2018年に宗教取り締まりを強化する以前、中国国内で伝道が可能であった黄金の期間が10年から15年ほどあった。この期間中、私は年に2、3回中国に戻り、キリスト教書店や、家の教会が経営するコーヒーハウスで、伝道的な「無料公開セミナー」を行い、国内の多くの都市でクリスチャンや求道者と会っていた。
2011年、私はフルタイムのクリスチャン・ワーカーとなった。私はカリフォルニアを本拠地とする中国語のメディアミニストリーOverseas Campus Ministries(OCM)に加わり、伝道部責任者、および機関誌とメディアプラットフォームの編集長を務めた。OCMのWeChatアカウントを通して、7万以上の購読者を得たが、その後中国政府の検閲によりブロックされ、アカウント削除された。OCMは中国にいるクリスチャン・ブロガーの「サークル」を立ち上げ、より多くのクリスチャン執筆者を励まし、育成した。私はZhihuで300件近くの信仰に関する質問に回答したが、2020年1月に私のアカウントは検閲対象となった。

OCMにいる間、私は北米、アジア、ヨーロッパの華人教会でも講演者また説教者として奉仕した。2019年、私は「ディアスポラおよび帰国者のための宣教師」として、ある国際宣教団体に加わった。2022年1月、私はアジア編集者を務めるため、クリスチャニティトゥデイに出向した。本誌に携わった2年の間に、英語から中国語への翻訳記事が数百本出版されただけでなく、中国語で書かれた記事も数十本、公表された。私は引き続き、宣教活動とメディアミニストリーを通じて、華人教会のための働きをする。

私がアメリカに来た32年前、両親は私が一流科学者になることを期待していた。私は化学産業で科学者として良い仕事をしたが、両親はまさか私がそのキャリアをなげうって、インターネット宣教師として執筆編集者になるとは想像もしていなかった。私がよく参加していた中国語フォーラムの多くは、今日もはや存在しない。だが今も時折、中国人クリスチャンからダイレクトメッセージを受け取ることがある。彼らがまだ無神論者だった時、私のオンライン活動を通して私のことを知っていたと言うのだ。中にはフルタイムの牧会者や宣教師になった人もいる。私が依然としてネット上で、またキリスト教メディアを通して、活発に伝道していることに彼らは驚いている。
私の人生の旅路を振り返る時、以前にも増して私は確信する。神の恵み以外に私には誇るものがない。私が中国で苦悩していた時、神は私の心のうちに働いてくださった。神はご自身のタイミングで、私をインターネットに、そしてキリスト教擁護論や宣教活動へと導かれた。私の旅路は神の守りと摂理に満ちている。ある賛美歌にあるように、「神はご自身の手で私を導かれる」と私は心から証言する。