5月3日から5日まで、東京・台東区東上野の上野の森キリスト教会で開かれた「ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー」(同事務局主催)で、リージェントカレッジ初代学長のジェームズ・フーストン氏が「キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜」をテーマに6回の講義を行った。今回は初日講演の続き。
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「皆さんに理解していただきたいのは、いわゆる宗教的な実利主義というものは、キリスト教信仰としての経験とは異なるものだということだ」とフーストン氏は言う。「この認識の壁を超えることは、クリスチャンにとって難しい。特に都会での生活が進めば進むほど、キリスト者としての計画と、職業人としての区別をすることが難しくなる。この問題は、日本だけでなく西洋でも同じです」
ここで自身の体験を分かち合った。「私は1947年からオックスフォード大学の教授として仕事をしていた。そして50年代当時、すでに私は職業人としてのアイデンティティーを持たないと決断した。重要なのは、私がキリストにあるパーソンなのだということ。しかし、クリスチャンの友人はそのことを理解してくれなかった。今日でも多くの人が、私が述べた優先順位を理解していない。神学校に関しても、その職業的アイデンティティーを持った人を育てることではなかったのです」

このことは日本文化の曖昧さに問いかけることを意味するとも言う。「甘えという言葉を使うが、この日本文化の曖昧さとは何か?曖昧さの中には常に妥協というものが関わっている。何かを犠牲にしても、和を強調する。それはある意味、一面的、一方的なコミュニケーションだ。我と汝という同等の対話ではない。もし、福音という良き知らせが、日本文化の持つ社会的集団的価値を乱すものであれば、それはよい宣教、伝達ではない、ということになる。アメリカ人は非常にアグレッシブに伝達するが、日本の文化では受け入れられない。世俗主義の影響を受けている異なる文化の中に福音を携え、そこに入り込むのは難しいと言えます」
「その中に入り込むには、伝える人が伝えるメッセージによって形づくられていなければならない」と強調する。「『私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから、私のところに来なさい。休ませてあげよう』(マタイ11・28〜30参照)と言う時、最高レベルの謙遜をもって語らなければならない。メッセージそのものの内容に常に精通していなければならないのです」
「こうした異なる文化の両側にある人々が壁を乗り越え、どのようにしてお互いを知ることができるのか」とも問う。「西洋では、自分達が考えている感情を、常に100%ではないが、言葉ではっきりと表現する。日本では言葉で表現するほかに、沈黙において何かを言い表すことが多い。沈黙が何を意味しているのか探るべきです」
「沈黙」に関して、リージェントカレッジを卒業したある日本人女性が書いた本について紹介した。「それは傾聴セラピーについての本で、それには沈黙がいかに重要な要素を占めているかが書かれている。もし皆さんが自分の意見をはっきり主張し続けるなら、何らかの形でしっぺ返しが来る。出る杭は打たれる。そして、皆さんは縦社会のどこかにいる。皆さんのことを知るためには、縦社会のどの層に属しているのか、どの部分にいるのか知る必要があるだろう。私が話している人がどういう層の人なのかによって、コミュニケーションの取り方も変わってくる」
「非常に残念なことは、日本人が絶望を感じる時に、自殺する人が多いことだ」とフーストン氏。「自殺は非常に悲しいもの。自分が自分であることを分かってくれる人は誰もいない。それに対して、聖書の人間学では、自分の感情に対して異なるメタファーがある。旧約聖書では、598回にわたり“心”という言葉が出て来る。問題はこの“心”から出る。だから、私たちがお互いの感情に注意を配ること、どういうことを考えているのかに敏感になること、キリストにある時にいかに自由であるか理解することが大切なのです」
(つづく)【中田 朗】
