新春メッセージ

<新春メッセージ><イエスを仰ぎ見つつ><人生どう見るかで決まる>

 記=正村 富男しょうむら・とみお 日本同盟基督教団長野福音教会牧師、長野オリンピック伝道協力会(NOEC)会長

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである」
  ヘブル人への手紙一二章2、3節(口語訳)

 思いみるべきである。著者のなんという深い示唆に富んだ勧告であろうか。
 「よく考えなさい」新共同訳、「よく考えるべきである」現代訳。カルヴァンは次のように述べている。「だから…イエスがどんな方であったかを熱心に考えなさい」。著者は彼の勧告を、キリストと私たちの対比を行うことによって敷衍(ふえん)している。
 万人のあがむべき神の御子がこんなにきびしい戦いを進んで戦ったのなら、私たちのうちだれが彼とともに忍ぶことを拒みえようか。”私たちは神の御子の同労者である。私たちよりはるかに高く卓越したところにおられたが、この方は私たちの状態にまで下りることを決意された。これは彼の規範を通して私たちに大胆さと勇気を与えるためである”ということを聞いたとき、そのことを考えるだけでどんな試みにも打ち勝つことができるからである。私は言うが、これによって私たちは勇気を取りもどすのであり、さもなければ私たちは流され、いわば絶望の中に溶けてしまうのである。
 イエスを仰ぎ見つつ、という言葉は、新約全体の標語であり、中心主題である。だからイエス・キリストがどんなお方であったかを熱心に、そしてよく考えることが、勧められているのである。
 <信仰の導き手なるイエス・キリスト>

 「信仰の創始者」新共同訳、「信仰の創始者であり」新改訳、別訳「指導者」などがある。創始者とは、他の人のために道を切り開く者、すなわち先駆者・開拓者・創立者のことである。イエスは救いの道を先達者として私たちのために、神に達する道を完全に備えられたのである。
 「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ人への手紙一〇章17節)
 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネによる福音書一五章7節)
<信仰の完成者なるイエス・キリスト>

 ヨハネ黙示録を見ると、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』 」。(一章8節)
 アルパ(アルファ)はギリシャ語の最初の文字であり、オメガは最後の文字である。イエス・キリストは初めであり終わりである、という意味である。
 「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している」(ピリピ人への手紙一章6節)
 イエスを仰ぎ見つつ。「イエスを仰ぎ見ることはまた、ほかのものから目をそむけることである。この二つの意味をもっている言葉がヘブル人への手紙第十二章の『仰ぎ見る』という言葉の中で用いられている。それは、自然にわたしたちの目を捕らえるものから、意識的に目をそむけ、注意を集中すべき対象に目を注ぐ、という意味である」(エーリヒ・ザウアー)
 「失望したければ、他人を見なさい。落胆したければ、自分自身を見なさい。しかし、勇気を得、勝利を味わいたいと思うなら、イエス・キリストを仰ぎ見なさい」
 人間は人生を、どう見るかによって、一切のことが決定されてくる。正しく生きようと思う者は、ものごとを正しく見なければならない。キリスト信者として正しく生きようと思う者は、キリストを仰ぎ見なければならない。