5月3日から5日まで、東京・台東区東上野の上野の森キリスト教会で開かれた「ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー」(同事務局主催)で、リージェントカレッジ初代学長のジェームズ・フーストン氏が「キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜」をテーマに6回の講義を行った。今回は初日講演の続き。
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講義2では、「甘え」について語った。「日本人の精神科医の土居健郎氏は『甘え』に関する研究をされた。『甘え』は社会的帰属だが、特にアニミズム的な習俗が残っているところに見られる。田舎などでは、私は自然に属している、汎神論の場合は、自然の中の多くの神々に属しているということになる」
それに対する異質な考え方は「個人」だと言う。「個人であるということと比較するならば、広大な水の中の一滴であるということ。そして、あなたが自分の家族とどういう形で属しているか、あなたの家族がその先祖にどういう関係で属しているか、ということになる。日本の農村に行くと、水田の真ん中に墓石が建っているのを見るが、まさに子孫が先祖を大切にしてきたことの象徴的な光景だと思う。この水田を開拓し、守ってきたのは自分たちの先祖である、と。こいう考えが先祖代々にわたって家庭に受け継がれてきています」
「このような祖先崇拝の国土の中にいると、主の祈りは非常に祈りにくいものである」と言う。「主の祈りには、神様に対し、『我らの父よ、日ごとの糧を与えたまえ』と書いてある。しかし、このような国土では、日ごとの糧を与えてくれるのは先祖だ。『甘え』は集団に帰属するものなのだ」
「互いに帰属し合っていることは注目すべきことだ」とフーストン氏は語る。「自分たちは周りの人と団結しているという意識をもつだろう。私は私であるよりも、私は私たちである、その一人だという言い方をする。信仰の決断をしなさいという迫りを受けた時は、クリスチャンになったら祖先は赦してくれるだろうか、と思う。日本では、本当の意味で、自分であることが非常に難しい。他に類を見ない独自の自分であることは、日本人の感覚からすると、本当に馴染みのないことだと思う」
「洋の東西を問わず、自分の存在の独自性を実現していくことは、いずれにしても容易いことではない。だが、この独自性は神様が与えてくださった賜物だ」とフーストン氏。「聖書で、イエス様が群衆の中に立っておられる個所があるが、その群衆の中にあっても、イエスは一人一人の個人に目をかけておられる。例えば、イエスの裾に触った女性に対して『誰が私の裾に触ったか』と尋ねられた。長血を患った女が触ったことを認識されると、どんな人でもなし得なかった変化をもたらした。主が私たちに与えてくださった独自性は、他の何ものも与えることができない。自分の祖先から受け継いだものも、文化も、与えることのできない唯一無二のものです」
このように集団に帰属する「甘え」の文化にある日本の教会の成長と、北米の教会の成長は違うと指摘する。「20人が千人になるまで何世紀もかかるプロセス。伝道において様々な困難、難しい要素がある。しかし、今日本では、大人たちがついていけない、iPodを使いこなすような、今まで見られなかった若者たちの層が生まれてきている。おそらく日本の歴史である意味、若者たちが反逆を起こしていく可能性がある。そして様々な動きの中で、恐れというものにさいなまれているのではないか。恥の文化は生きており、恥と恐れは非常に密接に結びついている」
「『甘え』という概念があるのは素晴らしいことだが、同時に『甘え』は躓きの石にもなる」とフーストン氏。「主は、羊一匹一匹の名前を覚えてくださる羊飼い。その独自性の豊かさの中で、他者に対して私は最も望まれる存在になる。私が私であるというアイデンティティーは、他者と分かち合えるアイデンティティーになりえる。そして他者との関係が『甘え』から自分を自由にしてくれます」
(つづく)【中田 朗】
