
医師、川越厚(かわごえ・こう)さん。
39歳で大腸がんになり、手術ののち生還したがんサバイバーで、被爆二世。父の研三さんは80年前、30歳のとき広島で被爆し、厚さんはその2年後に生まれた。直接聞くことがほとんどなかった父の被爆体験を知るため、そして後世に残すため、〝遡上の旅〟と銘打って広島を訪れ、『ヒロシマ遡上の旅 父に捧げるレクイエム』(本の泉社)を上梓した。

がん患者をみる川越さん自身、大腸がんで生死をさまよった身。その経験を通し、患者の気持ちを深い共感(コンパッション)をもって理解できるようになったという。
「その人と同じような気持ちを持てるか、理解できるか、それが第一です。その人の苦しみを知らなければいけない。被爆者も同じで、話を聞き、見て、触って、リアリティーに近づいていく。具体的には、やはり広島に行かなければいけないと思います。それで初めて、被爆者の苦しみがわかったのです」
自身の一生を方向づけた、父の被爆。向き合うことにおそれもあった。しかし、5回にわたり広島を訪れ、考えが変わった。「この旅をして本当によくわかりました。これが、神様の計画、恵みだったんだな、と。今そのことを、自分自身の一生を振り返ってみて、すごく感じます」
被爆二世とはいえ、原爆投下のわずか2年後の生まれ。終戦直後の広島の様子は原体験として残り、写真を見れば場所が分かるという。「今のうちに残しておかなければ」と、広島に足が向いた。2000年に東京で開いた診療所「ホスピス パリアン」を21年に閉じ、山梨へ移り住んだことも、後押しした。
気付けなかった父の痛み
川越さんが重く見ているのは、被爆者に対する理解やケアが、充分なされてこなかったことだ。被爆して生存した人が背負わされたのは、原爆症の苦しみだけではない。目の前で愛する人が助けを求めているのに、助けることができなかった無力感。自分にも危険が迫ってきて、逃げざるを得なかった罪悪感。「サバイバーズ・ギルト」を背負って戦後を生きなければならなかった。川越さんの父・研三さんもそうだった。
ホスピスケアには、「患者と家族で一人の病人」という考え方がある。患者が亡くなった後も、残された家族に対して「グリーフケア(悲嘆のケア)」が続く。元の状態に回復して立ち直っていくと、家族を看取った経験を思い出すことができ、語れるようになる。その期間は一般的に一年間とされる。しかし、被爆者が被爆体験を思い出して語れるようになるまでは、何十年、あるいは一生涯かかる。「被爆者に対しては、我々は何もできないんです。でも神様は、ちゃんと癒やしを用意してくださっている。それは、時間です。人間のわざではないんです」
戦後の平和運動は、被爆者にとって、かえってつらいものでもあったという……(12面に続く)
