
米国黒人暴行死事件(1面参照)でも発言が注目されたコーネル・ウェスト氏は「民主主義を支持する運動が弱体化すれば−そして、市民や労働者がもっと弱くなれば−人種問題が爆発するだろう」(『人種の問題 アメリカ民主主義の危機と再生』山下慶親訳、新教出版社、2008、写真①)と予言していた。民主主義を強調するウェスト氏だが、「キリスト教徒としての信念のほうがさらにずっと深い人間として、発言している。民主主義は私の信仰ではない」(『民主主義の問題:帝国主義との闘いに勝つこと』法政大学出版局、2014)と述べる。

『公共圏に挑戦する宗教—ポスト世俗化時代における共棲のために』(箱田徹、金城美幸訳、岩波書店、2014、写真②)では、様々な哲学者との討論の中で、ウェスト氏は宗教者の立場で発言した。
「公共圏」を広めた政治哲学者ユルゲン・ハバーマス氏は、「宗教的市民と非宗教的市民がともに理性を公共的に使用することで、多元主義型社会の熟議政治が活発になる」、「宗教的発言を公共の場から排除してはならない」と述べた。ただし宗教的発言は世俗的な語彙と「誰にでもわかる言葉」に言い換えられる必要があり、公共的理性を用いることが重要になる。
一方ウェスト氏の発題は、非常にパフォーマティブだった。「哲学的なテキストや社会分析的批評、解釈学的再構成を提示する代わりに、公共圏に実質と厚みを与える伝統や言語どうしを精力的かつ巧みに翻訳し」、「哲学と詩のあいだで、聖書と歌のあいだでシンコペーションやリフレインを奏で」、「われわれの内にある宗教の力を認めるよう訴え」、「公共圏で宗教的な声が持つ力を体現」した(同書編著者)。そもそもウェスト氏は哲学者であるのと同時に音楽活動をし、映画「マトリックス」に出演するなど多彩な活動をしているのだ。
「人が共感なり想像力を発揮するとき、つねに不正に対する義憤と聖なる怒りで満たされる」、「直ちに何かしなければという気になり、正常化され、隠され、隠蔽されてきた緊急事態の存在が感じられる」と言う。同書の討論の司会者は「宗教は徹底的な変革と根源的な問いかけの基盤となる。それは熱狂、情熱、憤慨、激怒、そして愛をもたらしてくれる」と評価した。
§ §

宗教は「公共圏」の枠を超える存在だ。スタンリー・ハワーワス氏に学んだウィリアム・T・キャヴァノー氏は、ハバーマス氏らを意識し、「『公共的』なるものに入場する際に教会が支払う代金は、公共的な理性という敷居の上を教会の特殊な真理主張が超えないようにすること、すなわちキリスト教的発話に対する自己規制」(『政治神学の想像力 政治的実践としての典礼のために』東方敬信、田上雅徳訳、新教出版社、2020)と注意を払う。
「キリスト教神学が語ることをいわゆる公共的な討論の場から排除することは、『世俗的な』中立性の名の下になされる」とも指摘。この中立性は「特に国家を念頭に置いた想像上の共同体」によってもたらされると語った。言わば「公共性の読み合い」(連載第4回)と通じる構造だ。
このような世界の「政治的想像力」に教会も「飼いならされ」てしまっている状況があると警告。キャヴァノー氏が提唱するのは教会が「もう一つの異なる種類の政治的想像力」を回復することだ。
「キリストの体としての教会は、公共的なるものと私的なるものとを分かつ境界線と、国民国家の境界線を両方とも突破する。そして教会は、通常想定されるのとは異なる政治実践のための空間を創り出す」と述べた。この際に注目したのが礼拝、特に聖餐だった。

この「想像力」にW・ブルッゲマン氏も関心を示す。「聖餐の想像力には、どっぷり浸かった消費生活に抵抗したり、対抗的な代替を選択する可能性」(『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』鎌野直人訳、日本キリスト教団出版局、写真③)があると期待した。
このような想像力は「テクストに根ざしつつ、テクストから具体的な状況に向かって、自由に、そして大胆に移行することのできる」ものであり、社会に向けては「古い、リベラル派による対決型モデル以上の何か」となる。それは「包み隠しているもの」をはぎ取り、それを批判し、信仰共同体が向かう「もうひとつの時と状況」を約束し、人々と共同体に力を与える。この預言者的な想像力、「究極的な批判」は「熱情とあわれみ」から生まれる。キリストを意識し、
「熱情に基づく受難(passion)だけが、無感覚を突破する」と述べた。

連載第一回で紹介したスティーブ・ターナー氏は、アートの預言者的役割について語り、アートが既成の社会規範に疑問を投げかけ、「現在を生きながら明日のライフスタイルを身につけ、未来に生きる」(『イマジンー芸術と信仰を考える』いのちのことば社、2005、写真④)と語った。「想像力」において、信仰とアートが結びつく。最後に「芸術と政治」について見ていこう。(つづく) 【高橋良知】
