ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜⑦ 西洋芸術は自己を強調 東洋は被造物と一体化

 5月3日から5日まで、東京・台東区東上野の上野の森キリスト教会で開かれた「ジェームズ・フーストン2016上野の森キリスト教会セミナー」(同事務局主催)で、リージェントカレッジ初代学長のジェームズ・フーストン氏が「キリストの霊性の継承〜クリスチャンの関係性を見直す〜」をテーマに6回の講義を行った。今回は3日目の講演から。

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 「今朝の講演のトピックは、日本も文化の美しさ、それに対する神の臨在のある国ということです」。午前中最初の講演で、フーストン氏はこう語る。「今、全世界では、人権、人間の威厳というものに、非常に高い関心が集まっている。ある意味、それは皮肉な状況とも言える。同時に、進化論の影響で、私たち人間は動物から進化したものという人間論が根強く残っている。このような傾向というのは、世俗主義が神様に対し、怒りをもって否定していることの反映だ。人間と動物との差異の一つとして、人間には芸術があるということ。動物には、人間が持っているような芸術はありません」

 フーストン氏は、ツアーで様々なキリスト教の壁画が描かれた洞窟を訪れた時のことを回顧した。「今は湿気が多くて壁画が崩れ、入ることができない洞窟だが、私たちは当時の太古の人間たちが鹿やマンモスなど、様々な氷河期の動物を狩りしている原始的な人間の様子が見られた。非常に男性的、戦闘的な壁画の絵で、霊に訴えるようなものがある。人間が生きていくためには、食物が必要であることを如実に訴えている。また、人間は動物とは異なり、芸術を行使する姿が描かれている。動物ではなく、人間が生きてきた証しです」

 「これは芸術とは何かを教えてくれるものだ」と話す。「第一に身体を持っているという感覚を表現していく。目を使って見ることができる絵画や壁画、幸せの詩が奏でるリズムや音楽、絵や文学によって非常に影響を受けます」

 フーストン氏は、世俗的な芸術が見落としている点があると語る。「それは、人間は霊的存在であり、霊的存在として行動すること。芸術の人間心理というのは、密接に結びついているが、私たちは両者を分離し続けてきた。今や芸術はある意味、エリートや富裕層のみが享受できるようなものになってしまっている。あるいは、それは大きな美術館に飾られていて、私たちの日常生活とはかけ離れたものになってしまいました」

 「この芸術とは人間の魂を映し出している」とも言う。「過度に厭世的になってしまった私たちは、だんだんエロチックな芸術にフォーカスしてきている。性をモチーフとする芸術作品は、神と疎遠になった自分の中にある不正義の欲望を現す。西洋の芸術を考察して得られるもう一つの意識は、自分自身という強い感性であり、その心の中にある意識を現そうとする願望だ。特に自己実現、自己表現の渇望というのは、19世紀後半、印象主義において強調された。芸術に関する現代的解釈というのは、他には独自性の主張で、自分の歌、詩、作品、芸術でなければならない。自分の感じ方が表現されるからだ。それは自己を拝む偶像崇拝に他なりません」

 一方、東洋の芸術については「身体と魂が様々な神々と調和していて、両者は息の合ったダンスをしている」と表現する。「そこから生まれる美しさというのは、人間が全身全霊を傾けて、偶像崇拝している姿だ。書道家は紙と、陶芸家は陶器と、語り部は物語と一体化していくのです」

 ここでフーストン氏は、日本の作家、安部公房の小説『砂の女』について紹介する。「この小説の主人公の男は、浜辺に生息する新種の虫を採取して名をなそうとしている野心的な昆虫学者だ。彼の頭の中は砂と昆虫のことばかり。ある時、一軒の民家にたどり着く。そこに若い女がおり、男を好きになる。2人は関係を持ち、子どもが生まれる。だがこの民家は砂丘に囲まれていた。ある日、2人は砂に埋もれてしまい、女は助け出され、男は砂に埋もれて死んでいきます」

 「この物語の主題は、自然の力が人間を襲うというもの。この男の人生は昆虫を見つけることに費やされてしまった。自然を愛した男の、非人格的で残酷なまでの男の運命を糾弾している小説なのです」
(つづく)【中田 朗】

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