アメリカにはキリスト教ナショナリズムよりも優れた福音が必要だ

7月4日「米国建国250周年」に向けてアメリカのナショナリズムを高めようとする動きの中で、聖書が利用された。本紙提携の米国誌「クリスチャニティ・トゥデイ」のコラムニスト、ラッセル・ムーアは、事前の5月に、聖書を読み解きながら、注意を喚起した。

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アメリカにはキリスト教ナショナリズムよりも優れた福音が必要だ

ラッセル・ムーア

この記事は、ラッセル・ムーアのニュースレターを基に作成されました。

先週末(5月中旬)、ワシントンのナショナル・モールでは、米国建国250周年を記念した全国的な祈りの集い「Rededicate (再献身)250」に数千人が集まった。ドナルド・トランプ大統領はビデオメッセージで歴代誌第二7章を朗読した。政治指導者や福音派の指導者たちが祈りを捧げ、演説を行った。その言葉遣いはお馴染みのものだった――アメリカ、神、悔い改め、刷新、「神の下にある一つの国家」。「キリスト教のアメリカ」を掲げる多くのナショナリスティックな主張が繰り返され、さらには10億ドル規模のホワイトハウス・ボールルーム建設を求める嘆願さえあった。私の頭には、高校時代の同級生がアメリカの宗教について語った言葉だけが浮かんでいた。

名目上のローマ・カトリック教徒だったその友人は、自分の伝統であるカトリックと、私の属する南部バプテスト派のどちらが正しいかについて人々が議論することに何の意味もないと語った。彼が見る限り、両者は同じように機能しているからだ。「カトリックの連中は土曜の夜に好き放題やって、日曜日に懺悔に行き、次の土曜の夜までそのサイクルを繰り返すんだ」と彼は言った。「バプテストの連中も同じことをする。ただ、日曜の朝に『イエスに人生の再献身をする』という違いがあるだけで、次の土曜の夜までそのサイクルを繰り返すんだ」

もちろん、彼はローマ・カトリック教会の告解の秘跡に対する見解や、福音派プロテスタントの悔い改めに対する理解に対して不公平な見方をしていたが、その両方が歪められているという彼の指摘はまさに的を射ていた。彼は、「再献身」とは、多くの場合、自分の良心を「再献身」という名目で、自分がやりたいことを何でもやるために、必要最低限だけなだめることに過ぎないことを見抜いていたのだ。

国家もまた、同じことをしうる。

ナショナル・モールで、最も穏健な形ではアメリカの市民宗教、最悪の場合は本格的なキリスト教ナショナリズムを擁護する典型的な主張を耳にしたとき、私が最初に思ったのは、「アメリカには、これよりももっと良い福音がふさわしい」ということだった。しかしその後、私は自分自身のキリスト教ナショナリズムの在り方を悔い改めた。

アメリカは福音に値するわけではない。私もそうではない。あなたもそうではない。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」と使徒パウロは語っている。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペソ2・8、9)。しかし、アメリカには、ナショナリストの集会でしばしば目にするものよりも、より良い福音が確かに必要とされている。

過去1世紀にわたる「神と国」を掲げるあらゆる集会で、歴代誌第二7章が引用されるのは予想通りのことだ。とりわけ、学者リチャード・ピアラードがかつて「アメリカの市民宗教におけるヨハネの福音書3章16節」と位置づけた(歴代誌第二7章の)14節が引用されるのは常である。

…わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす…

なぜこのような行事で、この節が繰り返し選ばれるのか、その理由は容易に理解できる。それは慰めとなる。ほとんど取引のようにさえ思える。公の場で宗教的な行いをいくつか行うことと引き換えに、国が行っていることに対する神の祝福を得るという、比較的容易な交換関係を教えているように思える。問題は、歴代誌第二第7章に対する市民宗教的な解釈が、繁栄の福音の伝道者が申命記の祝福と呪いについて用いるのと同じ枠組みを用いている点にある。

歴代誌第二第7章が扱っているのは、宗教的ナショナリズムではなく、その逆である。舞台は神殿――ソロモンが築き、神の臨在の箱を安置し、犠牲の血をささげ、神の栄光がその家を満たした場所である(1~3節)。これらはすべて、イスラエルの民との「契約」――神が彼らの神となり、彼らが神の民となること――およびダビデの家との「契約」――その血統の継承者に王位を永久に与えること――という文脈の中で行われた。

旧約聖書と新約聖書の残りの部分全体は、神がどのように御言葉を守り通されるかを描いたものであり、イエスとその使徒たちは、栄光、臨在、契約、民、いけにえ、王座、祝福、呪い――これらすべてがイエスにおいて成就されたと教えている。

そして、私たちがこの聖句をそう使おうとする姿勢こそが、極めて危険なのである。何しろ、神はこの契約の言葉の中で、他の国々が部族の神々を扱うような方法で、ご自身が扱われることはないと警告しておられるのだ(歴代誌第二 7・19–22)。ソロモンによる神殿奉献の記述に続くページでは、ソロモンが、契約を守り抜くことのできる忠実な王ではなかったことが明らかになる。彼の王国は南北二つに分裂し、税制などをめぐって互いに対立することとなった。

それにより危機が生じた。何しろ、神殿、すなわち犠牲をささげる場所であり、神の臨在が現れる場所は、すべてエルサレム、つまり南王国ユダにあったからだ。北王国の王ヤロブアムは、南王国の王レハブアムとの地政学的な対立について、当然の懸念を抱いていた。「この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえを献げるために上ることになっているなら、この民の心は彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、彼らは私を殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう」(列王記第一12・27)。

ヤロブアムは、神への礼拝を解決すべき政治的問題と見なしていた。そして彼の答えは、宗教的ナショナリズムであった。彼はダンとベテルに金の子牛を据え、人々に「エルサレムまで行くのは『負担が大きすぎる』」と告げ、その場でも礼拝できると示した。障害は神学的なものだった。とりわけ、神は、いけにえをささげ、垂れ幕の向こう側にある御前に民の罪を携えていくことを、特定の血筋にのみ任せていた。しかし、ヤロブアムは、これらすべてを行うために聖職に就くことをいとわない、自分自身の祭司たちを見つけた。彼は、これが神の御心であると告げる預言者たちも見つけ出した。

こうしてヤロブアムは、神のトーテムや象徴を用いて政治的統一を築き上げた。そしてそうすることで、彼はこれらすべてのものを空虚なものにしてしまった。

ベテルは、イスラエルの子らの「イスラエル」であるヤコブが、夢の中で天から降りてくる梯子として神と出会った場所だった。聖書学者リチャード・ボウカムが述べたように、

彼が発見したのは、神がその特定の場所におられるということよりも、むしろ神はヤコブがいるところにおられるということであった。神はヤコブと共におられ、彼がどこへ行こうとも共におられる。「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る」(創世記28・15)。神がヤコブに示された啓示は、ベテルに定住し、すぐそばにある神殿で神を礼拝しようとする人のためのものではない。むしろ、旅路にある人のためのものだ。これからは、ヤコブが眠るあらゆる場所がベテルとなるのだ。

その啓示を、操作や制御が可能なもの、国家のプロパガンダの手段へと固定化しようとする試みは、それを死んだものにしてしまうことに他ならない。かつて「神の家」であったその場所で、王はその聖地を利用して、「自分が造った子牛にいけにえを献げた」(列王記第一12・32)のである。

しかし、そうしたことはすべて、本題から外れているように見えたに違いない。何しろ、国家の存亡がかかっている状況で、神学の細かい論点など誰が気にするだろうか? ソロモンの王国のように――外国との同盟や王自身の性的不道徳によって分裂してしまうような結末を、誰が望むだろうか? 宮廷の預言者たちは、きっとこう自分に言い聞かせていたに違いない。「レハブアムはひどい人間で、恐ろしいことをするだろう」と。コミュニティーの尊敬される長老たちが肩をすくめてこう言った様子が、まるで目に浮かぶようだ。「まあ、ヤロブアムとその金の子牛について何を言おうと、少なくとも彼は雌牛と雄牛の違いは分かっている」。

そして、しばらくの間、それは「うまくいった」―あまりにも長く続いたため、いつものように、人々は神の忍耐を、神がそれを許しているのだと誤解してしまった。

ヤロブアムは「バアルを礼拝しよう」とは言わなかった。彼は実質的に、「これが、あなた方をエジプトから導き出した神だ。都合よく、家からもっと近い場所にいる」と言ったのだ。ヤロブアムは宗教を廃止したわけではない。彼はそれを役に立つものにしたのだ。

それにもかかわらず、イエスはご自身について、「神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」と述べ、ご自身を神のベテルであると明かされた(ヨハネ1・51)。それを、「血と土」による国民的連帯で国を固める手段として用いることは、イエス・キリストを利用することである。そして、イエス・キリストは利用されることを許さない。

宗教的ナショナリズムの問題点は、国家のためのキリスト教を求めすぎていることではなく、キリスト教にも国家にも求めなさすぎる点にある。

歴代誌第二7章は神の御言葉である。私たちがそれを読むのは正しい。しかし、「わたしの民」とは私たちの国を意味するのではなく、神が備えてくださった血の下で神のもとに来る契約の民のことである。「彼らの地を癒やす」というのは、もしアメリカが十分な公的な宗教的行いを実施すれば、神が国家の偉大さを回復してくださるという約束ではない。それは、イエス・キリストにおいてすべてのことを正しく整えるという約束である。

問題は礼拝や悔い改めではない。それらすべては確かに必要である。しかし、それらは神が命じられたとおり、イエス・キリストを通して神の御前に出るという形で必要とされるのだ。国家は「神」を利用することができる。国家は「信仰」を利用することができる。国家は「価値観」を利用することができる。しかし、十字架にかけられ、復活されたイエスを「利用」するのは極めて困難だ。なぜなら、イエスは「わたしに従いなさい」と言い続けて、その計画を絶えず中断させてしまうからである。

私たちが神のもとへ至る道は、ナショナル・モールのステージでも、大統領執務室のビデオでも、建国の記憶でも、取り戻された国でもありません。私たちは、裂かれた幕をくぐり、血によって、恵みの御座へと至るのだ。そして、マスコットを通じてではなく、仲保者を通じて至るのである。それ以外の方法で、自分自身を「再献身」することはできない。

それは、アメリカにふさわしい福音ではない。私たち誰にとってもそうではない。しかし、それは私たちに必要な福音である。それこそが、唯一存在する福音なのだ。

ラッセル・ムーアは、『クリスチャニティ・トゥデイ』誌の特別編集委員兼コラムニストであり、CTメディアが配信する週刊ポッドキャスト『ザ・ラッセル・ムーア・ショー』のホストも務めている。

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