「敵対」超えて「創発」へ 「不自由」とコモンズ(共有地[知])への応答⑥ 公共、芸術を考える

 「公共」について、本連載にかかわる部分を、哲学、政治学、神学の観点で、いくつかの書籍から整理してみよう。

 公共性とその課題についての全体像は齋藤純一著『公共性』(岩波書店、2000)が参考になる。公共には①国家に関係する公的なもの(official)、②すべての人びとに関係する共通のもの(common)、③誰に対しても開かれているもの(open)、の三つの側面があると指摘する。

 公共空間は開かれた場ではあるが、排除と周辺化の力も働く。人種、国籍が異なる人々など、マイノリティーの排除だ。また公共空間での対話には、文化における支配的な規範の理解、合理的な態度が求められる。齋藤氏は、マイノリティーが、家族的な「親密圏」において自分たち自身の言説空間を創出し、公共圏に問うことを勧める。共通の規範、言語がないならば「価値観を異にする他者に対して訴えの言語、説得の言語をもって向き合うというよりもむしろ、別様の暮らし方の提示、別様のパフォーマンスの提示、別様の作品の提示」をする方法がある。ここに芸術がかかわる。

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 「社会関与型芸術」(連載第三回参照)は、「差異」を強調する「ラディカル・デモクラシー」と関係する。「ラディカル・デモクラシー」の提唱者の一人、シャンタル・ムフ氏は「論争のための、活気に満ちた『闘技的な』公共領域の創造を構想」『政治的なものについて 闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築』酒井隆史監訳、篠原雅武訳、明石書店、2008する。冷戦終結後、「調和した社会の確立を容易にするどころか、むしろ、右翼ポピュリズム運動が台頭」したという問題意識があった。

 政治学者の千葉眞氏も、少数のエリートの支配権力に利益誘導される「大衆民主主義」(ポピュリズム)を警戒『ラディカル・デモクラシーの地平−自由・差異・共通善』新評論、1995。「民衆の発意、生活、かれらの共同の権力、かれらの自発的なネットワーキング」によるラディカル(根源的)なデモクラシーを勧めた。マルクス主義に立つムフ氏らが左右の対立の顕在化を強調するのに対し、キリスト者の千葉氏は、「人間の作ったいかなる思想やイデオロギーといえども、人間問題や社会問題の全面的な解決を処方できる万能薬ではありえない」という超越的な観点だ。

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 『キリスト教と民主主義 現代政治神学入門(ジョン・W・デ・グルーチー 著、松谷好明・松谷邦英 訳、新教出版社、2010)も、民主主義のヴィジョンについて、「ヴィジョンが民主的な政治体制において完全に実現され具現化されることは決してあり得ない」と述べる。一方で、「ヴィジョンはユートピア的かもしれないが、このことが世界中の民主的変革を求める闘争の背後の原動力となってきた」と語る。

 同書で言うヴィジョンとは「神の〈平和(シャローム)〉の支配が実現される社会に対して彼らが抱いていたメシア的希望」を土台にした、「すべての人が真に平等でありながらしかも各自の違いが尊重されるような社会」だ。ただしユートピアが国家イデオロギーになる危険はある。「『具体的ユートピア主義』が時々イデオロギー的な勝利主義を生み出した」として、特にコンスタンティヌス帝以後のローマ帝国で国教とされたキリスト教世界の問題を指摘した。

 キリスト教哲学をもとに公共哲学、公共福祉を研究する稲垣久和氏もイデオロギーに注意を払う。キリスト教会の社会参与について、マルクス主義やリベラリズムからの影響を指摘し、「もしキリスト教が私的な信仰に終始して、独自の世界観と人生観に基づく公共哲学を持つことができないならば、その左右の思想の断片的摂取の中で翻弄されるだけ」(『公共福祉とキリスト教』教文館、2012)と語る。

 稲垣氏が提示するのは国家と個人の二元論をこえて、「私から公へと媒介する公共」を置いた市民社会の在り方だ。市民社会は「他者と共に連帯と友愛によって共働して努力して作る社会」となる。

 ヨーロッパには自由民主主義、社会民主主義とも異なる「多元的・多層的な価値の共存を許容する民主主義のあり方」としての「キリスト教民主主義」があった。稲垣氏はこれを参考に「アジアの多元的宗教の下で可能になる形態」として「創発民主主義」を構想した『宗教と公共哲学 生活世界のスピリチュアリティ』東京大学出版会、2004

 多元的な人々と連帯するための、共通の動機として、「共通恩恵」(common grace)に注目する。多様な宗教やイデオロギーがそれぞれの「超越」を主張し対立するのではなく、むしろ「超越」によって生かされた「恩恵」に立ち、「恩恵」から「責任」を自覚し「応答」する在り方を勧める。つづく)【高橋良知