2025年9月22日

『聖者のかけら』川添愛 著2023年、新潮文庫文庫、736頁、1,155円税込 突然だが、クリスチャンはもっと小説を読むべきだと思う！ ……別に昨今の本離れを作家が憂いているわけではない。 以前、私の小説の師匠がこんなことを教えてくれた。映画やドラマ、アニメなど映像メディアがこれだけ発達している中で小説が売れるのはなぜか？ それは小説が「人間の心」を描くのに最も適した媒体だからである。小説の強みは心情描写なのだ、と。 罪の自覚や救いの確信など、およそクリスチャンにとって大切なことには、心と深く関わりのあるものが多い。だから、良質な小説を読み、心の動きに対する感受性を豊かにすること、心を語る言葉を学び、蓄えることは大切なことなのではないだろうか。 さて、今回ご紹介するのは川添愛氏の歴史ミステリ「聖者のかけら」である。この小説は良質な冒険ミステリを楽しみながら、ルターの時代（よりは300年ほど遡るが）の空気感と、そこに生きる人々の心に接することができる素晴らしい小説である。 舞台は13世紀のイタリア。モンテ＝ファビオ修道院の若き修道士、ベネディクトは院長から与えられた命令に頭を抱えていた・・・（次ページでカトリック、プロテスタントの特色にも留意した書評が続きます） 「修道院に送られてきた謎の聖遺物の正体を探るように」 ほとんど修道院の外に出たことがない彼は慣れない外界に戸惑いつつ、戒律を守れない状況に心の平安を失っていく。やっとのことで、協力者である助祭ピエトロのもとにたどり着くも、彼は俗世に染まった風変わりな男だった。 決して相容れぬ存在ながら、聖遺物に深い造詣を持つピエトロと共に、謎を追い、訪れた先のアッシジ。そこでは聖フランチェスコの遺体が消えるという大事件が起きていて……というのが大まかな物語の流れである。性格の合わない二人のバディミステリだ。 聖遺物や聖人に関する奇跡については、プロテスタントとして認めがたいものがあるので、それはある種のファンタジーとして読めば良いとして、注目したいのは「それが“ある”と信じられた世界観において人々がどのように生きているか」という点だ。 主人公のベネディクトは、過去に犯した大きな罪を引きずっている青年である。聖遺物に拒絶反応を示すというユニークな体質の彼は、聖なる物に否まれた自分は救われていないのではないか、という葛藤に囚われている。そして、救われるために自らと同じ名前を持つ聖人「聖ベネディクト」の戒律を厳守することを己に課していた。 その葛藤と、行ないによって救われようとする姿は、宗教改革以前のルターを彷彿とさせる。 そんな彼と共に読者が旅をするのは、どこか奇妙な世界だ。 キリスト教的な影響は確かに残っている。人々はキリスト教に慣れ親しんでいるし、当たり前に神を敬う文化が形成されている。施しがあり、善いもの、正しいものに対する価値観などはしっかりと根付いているようにも見える。 しかしながら、その中心に据えられていたであろう聖書やキリストの十字架の存在は不思議なほどに見えてこない。さながら周辺に茂った枝葉のみが伸び、人々の生活に食い込み影響を及ぼしていて、幹自体の存在は感じられない、そのような世界だ。 イエス・キリストの姿も遠く感じられる。人々は、身近な力ある存在である聖者のほうに親しみを覚えている。自身の町出身の聖者に対する愛着が、キリストに向かうべき想いを薄れさせているように見える。 もしも、自分の身近な人が、徳を積み聖者になったら……。昨日まで共に生活していた人が、共に若い時代を過ごした友が、神に選ばれた聖者として奇跡を起こすものに変貌したら……。そのような世界観で生きていたら私たちは何を思うだろうか？ どのようなことを悩み、考え、救いをどのように得ようとするだろうか？ それぞれに葛藤しつつ生きる登場人物たちを見る時、私は改めて、宗教改革の必要性を強く感じた。 あの時代には、“五つのソラ”が確かに必要であった。 聖書“のみ”、信仰“のみ”、恵み“のみ”、キリスト“のみ”、神の栄光“のみ”……という“のみ”を強調することがなぜ必要であったのか……この小説を読んでいるとそれがよく実感できる。そうでなければ人間はたやすく神の示す福音以外の、より身近な、より納得しやすいものに流れていってしまうのだ。 さて、事件を終えて、主人公であるベネディクトは葛藤を乗り越え、一歩前進したように見える。相棒のピエトロも心に一定の救いを得たように思える。けれど、残念なことにルターの宗教改革が訪れるのは、さらに300年も先のことだ。プロテスタントの私たちから見ると、彼らは真の解決には至っていない。その葛藤はこれからも続いていくだろう。 彼らの人生が終わる時、はたして真の福音と平安を得られているだろうか？ キリスト教的な色合いを帯びながら福音からは奇妙に遠い、そのような世界で生きた人々の心に想（おも）いを馳（は）せながら……。 宗教改革を覚えるこの10月、そして、この読書の秋に、読み応えのある歴史ミステリを嗜（たしな）むのも悪くはないのではないだろうか。 前回 https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/article-0dzhenaspm69exrz/ https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/article-qwf9fxuma7vwu8az/

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