寄稿「盗み取った自由に安住するな」:上中栄(日本ホーリネス教団旗の台・元住吉教会牧師 日本福音同盟(JEA)社会委員会委員長 )

「盗んだ水は甘く、こっそり食べるパンはうまい」。これは旧約聖書箴言の一節だが、まじめなキリスト者であれば、盗品を食べても、良心が痛んでおいしくないと思うだろう。この良心の感覚は大事である。
それでは、盗品が愛や自由や権利といった、目に見えない価値であればどうだろうか。もちろん、盗んだものは良くないと思うだろうが、それは盗品だと分かっている時のことであって、気付いていなければ良心は痛みようがない。
さて、天皇の代替わりが終わった。キリスト教界からは、天皇代替わりの諸儀式への政府の関与を問題視する声は挙がったが、日本社会にもキリスト教界にも響いたとは言えない。
日本福音同盟社会委員会が発行した『天皇代替わりQ&A』は、天皇代替わりが終わると売り上げは鈍り、同委員会が昨年末発行した信教の自由セミナー報告書も、タイトルに「天皇代替わり」を掲げたのは、販促戦略的(?)には失敗だったかもしれないと思うほど、関心は薄れている。
以前、筆者はある集まりで、天皇代替わりで何が変わるのかと問われ、おそらく何も変わらない、ただ政教分離原則や信教の自由の有名無実化が静かに進むだろうと言ったが、生ぬるい言い方だったと思う。
あるいは、日本社会と日本の教会は、自由を自ら勝ち取ったことがないと話したり書いたりしてきた。しかし、これもあまい言い方だったと思う。
かつてカール・バルトは、第二次大戦中の講演で、世の中の騒がしさから逃れて、ただ神と共にいたいというのは誘惑であるが、「人間的なものを見ようとしない者は、神的なものをも見ることはできない。そのような人は、そのいわば盗み取った静けさと孤独の中で、神を伴侶とすることも困難である」と言った。さすがバルト先生、厳しい言葉である。
井上良雄氏は、このバルトの言葉を引用しながら平和を訴え、教会は「盗み取った」平和の中に安住するのではなく、キリストによって実現した平和が、この地上にまだ現れていないことに驚くべきだと言った。
こうした言い方を借りるなら、私たちは「盗み取った」自由の恩恵に与(あずか)っていると言える。例えば、東日本大震災で原発事故が起きた時、首都圏の多くの人は、自分たちが使っている電気が福島から来ていたことを初めて知った。真実に関心を持たず、都合のいい豊かさだけを享受していた。「盗み取った」という感覚は、これに近いのではないか。
ウーマンラッシュアワーという芸人は、自分の地元の福井県に原発が多くあるにもかかわらず、夜7時以降に開いている店がなく、街が真っ暗になると言い、「電気はどこへいく~!」と叫ぶ。とてもシュールな笑いで筆者は好きなのだが、社会ネタを取り上げる彼らの漫才は激しく批判され、テレビに出る機会も減ったと言われる。
キリスト教界も状況は似たようなもので、社会的な発言をすると批判されるが、それはほとんどキリスト教界内からのものだ。
例えば、筆者の言動に対し、次のような批判があったと聞いた。筆者はホーリネスに属しているが、戦時下のホーリネス弾圧を引き合いに、政府の意向と異なることを言うから目立って迫害された、そんな歴史を上中はもっと学ぶべきだ、という。たいへんありがたい忠告ではあるが、残念ながらそれはホーリネス弾圧の原因ではない。紙幅に余裕がないので、その説明はできないが、このような発想は盗み取った自由に安住していなければ出て来ないのではないか。とは言え、筆者は信教の自由に関する集会などには招かれるが、聖会や礼拝に招かれることはほぼない(笑)。
一方、先の原発問題や、日韓関係など歴史認識や戦争責任をめぐる問題、牧師の不祥事、環境問題、そして天皇代替わりに関する問題等々、社会的な事柄に関するキリスト教界からの発信に、「悔い改め」という言葉が散見される。
しかし、悔い改めが濫用されると、それはただの自己批判となり、自己批判は免罪符のようになって、責任が問われない事態となる。そうした免罪符をもって発信される社会的な発言は、独りよがりな正義になる。敗戦直後の「一億総懺悔(ざんげ)」が典型例であるが、みんなで悔い改めて、みんなが悪いということになれば、結果、誰も悪くなく、誰の責任も問われない。これもまた、盗み取った自由に安住することで得られる安心感と言えるだろう。
バルトの言葉は、都合の悪いことに目を閉ざして、内向きな信仰だけの世界に生きようとしても、そこでは神と共に歩むことすら困難だということだ。この場合の「盗む」とは、悪意をもって奪い取ることではない。「自分自身でいくらかつくりあげた」とも訳されるが、神からの賜物でなく自分の想像物、あるいは不都合なことに目を閉ざし、自分に都合のいいものを手に入れることだと言える。
こうして入手した平穏は、まさに盗んだ水のように甘いが、そう言う者が知らないこと、気付かないことがあると箴言は警告する。そして気付かなければ、良心は痛まない。
不都合なものに目を閉ざして得られる平穏や安心は、真実なものではない。不都合な人間の現実を暴かれそうになった人々は、キリストを排斥して十字架につけた。人間の罪が明らかになったそのただ中で、救いの道は開かれたのではなかったか。こうした「神的なもの」が見えるなら、「人間的なもの」も見えるのではないか。見るべきではないのか。
今一度、天皇代替わりの問題は、天皇や皇族が好きか嫌いか、天皇制に賛成か反対かではなく、公権力が皇室の宗教行事に関与したことだ。これは明らかに政教分離原則違反であり、信教の自由の危機である。この危機を感じず、関心も持たず、目を閉ざし続けるなら、私たちはなお盗み取った自由に安住し続けることになる。
こうした批判的なことばかり言うと、「上中よ、自分の目から丸太を取り除け」と思う方もあるだろう。それもまた大事な指摘である。ただ、丸太を取り除くのは、謙そんぶった自己批判に終始することが目的ではなく、「はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除く」ためであろう。そんな宣教に励みたいと願わされる。