日本に聴く/ヤンシー氏ブログから後編
2月末に東北、関東、九州、大阪を訪問した、米クリスチャン・ジャーナリストのフィリップ・ヤンシー氏(最新翻訳『ソウル・サバイバー』いのちのことば社)が、3月30日に、日本訪問について自身のブログに投稿した。その後半の翻訳抜粋を届ける。
福島(つづき)
佐藤彰牧師(保守バプ・福島第一聖書バプテスト教会)と教会員は帰宅困難地域の外の小さな町に自分たちの教会を移し、教会建築を始めた。「日本のクリスチャン人口は総人口の1%以下。この町に来た時、人々から疑いがもたれないように、老人ホームの建設から始め、クリニックを開いた。信頼を得て、今は新しい教会堂ができた。30人から100人となった。この地域の小さな教会の人たちが災害に対して反応した方法を誇りに思っている。まず、教会で人々に食料を提供する場所を作り、家のない人たちには宿舎を用意した。やがて、サマリタンズパースやその他の支援団体が米国、欧州から津波で破壊された地域に家を建てるために来てくれた。神様は日本で働いておられる!」と語った。
私は被災地の教会で講演をしたが、主催者から、「あなたは苦しみや痛みについての本を書いている。学んだことを教えてほしい」と頼まれた。しかし、家を失い、親族を失った人たちの話に耳を傾けながら、私にはまったくその資格がないと感じた。彼らこそ、私に教えてくださるべきではないかと。
日本は回復力(レジリエンス)がある。津波の後、一杯のごはんと水のために長い列で待っている人たちの光景を忘れられない。まだ多くの人々が仮設住宅に住む。私がインタビューした人たちは地域外の人たちからの援助に感謝していた。命を失った人たちがいることに対する怒りの言葉は何もなかった。今後の津波に備えた防波堤や町々の再建の姿を観察した。日本の人たちは驚くべき不屈の精神を持っていると覚えさせられた。
長崎
写真=長崎日本二十六聖人殉教地
日本は過去75年、戦争、地震、洪水、火災、津波、原子力発電所のメルトダウンを耐えてきた。また、世界で2度も原子爆弾が使用された国である。福島の後、長崎に向かった。長崎では一発の原子爆弾により、4万人が死んだ。放射能の影響でさらに多くの人が病に倒れた。
長崎原爆資料館の中を回りながら、私は世界の指導者たちが、この記念館を一度でも自分たち自身で訪問してほしい、彼らの目で自分たちが傲慢に論議している武器の結果がどのようなものかを見てほしいと願った。
そのような中でも、日本の回復力が発揮されていた。今は平和公園となっている原爆落下中心地を回りながら、かつては、破壊され、毒物で満ちていたことをいま、誰が考えることができるだろうか。
イエスと殉教者の苦難覚え 回復への希望見いだす
「隠れキリシタン」の町々を回った。1597年豊臣秀吉はキリスト教を外国の宗教とみなし、すべてのクリスチャンを日本から排除することを決断。まず26人のクリスチャンたちを捕らえ、冬の季節、京都から長崎へ、800キロの道を歩かせ、全員十字架刑にした。
「殉教者の血が教会の種である」と、古代の神学者、テルトゥリアヌスが書いている。日本では教会がほとんど全滅した状態であった。将軍たちはキリスト教を排除し続け、踏み絵として知られている、イエスの像を描いた銅板を踏み、信仰を否定するように要求された。踏まなかった人たちは様々な拷問で殺された。ある人は崖から無理やり落とされ、ある人は首を切られ、ある人は海の中に十字架に付けられたまま落とされ、死んだ。ある人は竹のマットに巻かれ焼かれた。逆さまに十字架にされ、耳を裂かれ、血が少しづつ落ちていく苦しみの中死んだ人もいる。要塞の中に3万7千人のクリスチャンを押し込み、殺害したこともあった。
日本はもともと豊かな宣教地だった。250の教会で30万人のクリスチャンが礼拝をしていた。3世紀にわたる厳しい迫害の後、キリスト教は昔の忘れられた歴史の一つのように見えた。
近代になり、日本は宗教の自由を認めたが、当初は在住外国人だけであった。1865年のことである。その年、新しく建設されたカトリック教会で驚くべきことがあった。遠くの島から村人が外国人の前に現れ、祭司に耳のそばで語った。「私たちはみなあなたと同じ心を持っている」と。不意を打たれた地方政府はこの信者を島流しにし罰した。だが国際的な批判が起き、結果的に政府はクリスチャン禁止令を撤回した。
1966年遠藤周作が『沈黙』を出版した。2016年、マーチン・スコセッシが莫大な予算で、彼の小説をもとにして映画を作り、この苦しんだクリスチャンたちの英雄的な歴史にさらに注目が集まるようになった。米国でこの映画はある程度受け入れられたが、アジアの国々では群衆をひきつけた。韓国のクリスチャンは集団で日本を訪問しにきた。日本はこの地域を世界歴史遺産として登録準備している。中国や様々な国々からもクルーズ船で旅行者が長崎を訪れている。
遠藤周作文学館を訪ねた。クリスチャンたちが海の中に投げ込まれた崖の上に建てられている。森の中深く、隠れクリスチャンたちが生活したであろう印のある石の残っているところを歩いた。ガイドが一つの祈りの岩を指さした。その中ではクリスチャンたちが声を出しても聞かれることのない大きな声で祈ることができたという。今、沈黙の時代は終わった。信仰が、再び力のあるものであることが分かった時代の中にいる。
スコセッシの映画の中心は、遠藤の小説と同じく、宣教師たちが直面した道徳的なジレンマだ。ある美術館でガイドから説明を受けた。「私自身隠れキリシタンの子孫」と言って、17世紀の印の入った銀貨を見せてくれた。「宣教師たちを政府に引き渡した人に与えられたものです」と。
信仰を否定するために踏み絵を踏めば自由の身となった。もし、その宣教師が否定すると、日本人のクリスチャンたちが彼の目の前で犠牲となった。遠藤のことばを使うと、「この宣教師は自分のいのちを日本の人のためにささげようとしてきたが、実際は反対で彼の代わりに日本の人たちが、一人ひとり、彼のために命をささげた」のである。
私が日本から帰国したのは受難節だった。たくさんの郵便物が待っている中でみつけたのはオープンドアーズの発行した「世界ウォッチリスト2018」であった。信仰告白が困難な国々50を挙げる。北朝鮮、アフガニスタン、ソマリア、スーダン、パキスタンなど。
復活祭前のグッド・フライデーが近づく中、イエス様が背負ったであろう苦しみについて考えさせられた。また信仰ゆえに、多くの苦しみ、殉教があったこと。その中には日本人もいた。「兄弟が兄弟を裏切り、父が子どもを」とイエス様は予告された。「私のゆえに人々があなたを憎むことでしょう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。
写真=熊本市の講演で
大阪
日本での最後の講演は日本第2の都市、大阪でのクリスチャンの集まりであった。高層ビルが建ち並ぶ中、豊臣秀吉の建てた8階建ての大阪城があった。最初にクリスチャン撲滅を指示した人物である。桜の満開にはまだ、2、3週間早い中、梅の花が開花し始めていた。千270本の梅の木が立ち並ぶ中、秀吉の城があった。冬の間死んだ枝であった、黒い枝、幹が今明るい色に変わり、春を迎える準備をしていた。自然は、人間と同じように強い回復力がある。宇宙の深いパターンの鍵である。
グッドフライデーと呼ばれる受難日、どんな犠牲があったのか覚えたい。イエス様と、多くのイエス様に従う者の犠牲を。
「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました…しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです」(へブル11章13、16節)