2017年12月24・31日号 13面

映画「沈黙─サイレンス─」DVD発売記念ツアー「映画『沈黙』の舞台を訪ねて〜沈黙の地で神の前に静まる心の旅」(企画/いのちのことば社、旅行実施/ISAトラベル)が9月27日から30日まで実施された。(レポート・礒川道夫=いのちのことば社ライフ・クリエイション)堂﨑天主堂前

遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙 ─サイレンス─」は、67万人以上の観客動員があり、観た方は少しでも神の沈黙の意味とは何かを考えてくれたに違いない。
ツアーが単なる観光に終わらずに、「なぜ彼らが命の危険にさらされても信仰を捨てなかったのか」といった魂の問題を考えることができるように、今回は、長らく長崎バプテスト教会で牧会し、長崎を愛する牧師で現・常盤台バプテスト教会の友納靖史氏に団長を務めていただいた。
プロテスタント教会、カトリック教会の信徒の方、教会に行っておられない方など、89歳の方を最高齢に、部分参加を含めて総勢34名が参加された。
長崎には2つの神の沈黙があると思う。1つはキリシタンの殉教であり、もう1つは被爆である。原爆投下の際、爆心地に近い浦上天主堂では、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたために、多数の信徒が犠牲になってしまった。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
長崎入りしたツアー一行は、まず永井隆博士の如己堂・長崎市永井隆記念館を訪れた。自ら被爆し、妻までも失った永井隆博士は、その悲しみの中でも被爆者への救護活動を続けた。如己堂は、「己の如く隣人を愛せよ(如己愛人)」という聖書の一節からと名づけられている。なぜ神はキリスト者が多い、殉教の歴史のある長崎に原爆を落とすのを許されたのだろうか。
続けて訪れたのは「日本二十六聖人記念館」である。1597年、京都、大阪で捕らえられた宣教師、信者26名が殉教。ここからキリシタン迫害が映画「沈黙」へとつながっていく。その中には、「わたしの十字架はどれ?」と尋ねたルドビコ茨木、「泣かないで、自分は天国に行くのだから」と両親を慰めたアントニオ、「パライソ(天国)ですぐにお会いしましょう。お待ちしております」と母に手紙を書いたトマス小崎たち3人の少年がいる。パライソ(天国)を思う彼らの純粋な信仰には、心が打たれる。
この記念館には、映画でも使われた潜伏キリシタンの家に代々伝わってきた掛け軸「雪のサンタマリア」がある。案内して下さった宮田和夫記念館マネジャーの言葉「もしプロテスタントが先に日本に伝わっていたら、250年間も信仰が続いただろうか」が印象的だ。確かに隠れて持ち続けるキリスト教を象徴する何かがなければ、印刷された聖書もない時代に信仰は続かなかったかもしれない。(14面につづく)
如己堂2

見つかれば捕らえられる危険の多い中、静かにキリストの降誕を祝っていた

(13面からつづき)そして、ここには、中浦ジュリアンが書き残した唯一の手紙の実物がある。中浦ジュリアンは、天正遣欧少年使節として、ローマを訪問した4人の少年のうちの一人である。
映画にも出てきた宣教師フェレイラと一緒に穴吊りの刑に処せられ、フェレイラは5時間で棄教したが、中浦ジュリアンは「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と最期に言い残し殉教した。
棄教する者と殉教する者、何が彼らを分けるのか。根性論では解決できない真実があるとしたらそれは何か。とても考えさせられる。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そして、友納牧師がかつて牧会していた長崎バプテスト教会で礼拝の時を持つ。今回のツアーの特別プログラムだ。その後、遠藤周作著『女の一生〈第二部・サチ子の場合〉』でアウシュヴィッツを舞台とする作品に出てくるコルベ神父の聖コルベ館を訪問する。身代わりになって死んでいったコルベ神父には、このキリシタン殉教者のことが頭にあったことだろう。
2日目は、「沈黙」の「トモギ村」のモデルになった外海地区に向かう。ここには、遠藤周作文学館がある。訪問した9月28日は、21年前に遠藤が倒れた日だ。この外海地区で忘れてはならないのが、ド・ロ神父の働きである。
私たちは、キリシタン弾圧は豊臣秀吉や徳川幕府の迫害と連想しやすいが、実際には明治の新政府になっても続いていた。特に有名な大浦天主堂の信徒発見後、キリシタンたちは寺との縁を切ることを希望したために、迫害を受けることになる。そのキリシタン弾圧にも耐えながら貧しい暮らしをしていた人々の生活支援をしたのがド・ロ神父である。女性たちの自立支援や、孤児たちの世話をする姿には頭が下がる。OLYMPUS DIGITAL CAMERA
そして、五島列島へ向かった。キチジローの案内でロドリゴが潜入したとされる五島列島で、必ず訪れていただきたいのが久賀島にある牢屋の窄殉教記念教会である。牢屋の窄と言われる地には、1868年(明治元年)にわずか6坪の小さな土間に、老若男女、子どもや赤子まで200名のキリシタンが立ったまま押し込められた。
食べ物は、朝夕にサツマイモ一切れ、汚物は垂れ流しで、8か月の入牢生活で42人が息を引き取った。しかし、誰一人として信仰を失わず、また解放後は自分たちを告発した者に対して復讐した者はいなかったという。
42の記念碑にはそれぞれ殉教した様子が書かれ、10歳のマリアたきは「これからパライゾに行くから、父さんも母さんも さようなら」と言って息を引き取ったそうである。
最終日は長崎に戻り、信徒発見の舞台となった大浦天主堂を見学した。
さて、彼らが信仰を維持できた理由の一つには、「バスチャンの日繰り」という教会暦が伝わっていたことがある。この暦に従って、潜伏キリシタンたちはナタラ(クリスマス)をお祝いしていた。見つかれば捕らえられる危険が多い中で静かにキリストの降誕を祝っていたのだ。長崎バプ礼拝
信仰の自由がある私たちには、テーマパークよりも素晴らしいパライソ(天国)を思い、神の前に静まるクリスマスを過ごすことも大切なのかもしれない。
団長の友納氏は、「日本人キリスト者として、人生に一度は訪問して欲しい。ここは一人、一人が神様から語られる場所ですから」と語った。