2017年12月24・31日号 14面

 今年は、日本最後のキリシタン弾圧と言われる「浦上四番崩れ」から150年だ。キリスト教諸教派の窓口として、法務・信教の自由の課題に取り組む、日本キリスト教連合会は、9月に「キリシタン史『日本の宣教と信教の自由─浦上四番崩れ』」と題した定例講演会を開いた。講師はイエズス会日本管区・管区長で、日本二十六聖人記念館前館長のデ・ルカ・レンゾ神父。
「1640年以降、神父は公には日本にいなかったが、潜伏キリシタンはいた。潜伏したキリシタンが発覚すると、『崩れ』と呼ばれる迫害が起きた。早くも57年には、現在の長崎県大村市で『郡崩れ』があり、78人が獄死しました」
浦上では4回の崩れがあった。第1回(一番崩れ)は1790年、二番崩れは1842年、三番崩れは、56年だった。その間、1805年には天草で5千人が自発的に名乗り出て「天草崩れ」が起きたが刑死はなかった。「5千人を殺せば年貢は消えてしまう。困る面があったろう」とレンゾ神父は述べた。DSCF8673
幕府は高札をたて、キリシタンを密告すると高額の賞金を与え、訴えた人はキリシタンであっても免除されるとした。「だが実際は訴えた人たちも殺されることをキリシタンたちは知っていた。各藩にとっても崩れが発生すれば。統治ができていないとして、幕府から咎められるので、慎重だったはず」
開国後、65年には大浦天主堂がたてられた。禁教だったので、あくまで外国人向けの礼拝堂とされていたが、「当時宣教師は5人しかいない。会堂が巨大すぎる。隠れた信徒がくることをあらかじめ想定していたはずだ。坂の上の目立つところに建て、はたして、『信徒発見』が起きた」と解説した。
ところが67年に「四番崩れ」が起き、68人が逮捕された。
当時のキリシタンのリーダーは棄教には従わない態度を守り続けた。「政府が親のように守るのに、外国に従うのか」というような質問に対しても「宣教師こそ、自分たちの面倒を見る」と答えた。「信仰を捨てればお菓子をあげる」と言われた少女は、「パライソにいけばお菓子はいくらでももらえる」と応答した。
「女の子らしいことばだが、しっかりしている。潜伏していた人々の信仰、神学はしっかりしていた。七代にも及ぶ潜伏の間、信仰が消えてもおかしくなかった。外面的な自由はなかったが、心の自由はあったのではないか」と述べた。ほかにも獄中の夢や幻などを通して信仰が励まされていたという証言も紹介した。
四番崩れを通し、諸外国からの批判を受け、1873年には、キリスト教信仰は解禁される。「四番崩れは、現代的な信仰の自由を勝ち取った働きでもある。現代の私たちにとっても信仰に生きていく励ましになる」と話した。
質疑応答の中では、禁教後にも、カトリック装具をもった日本人漂流民が発見されたり、日本上陸の宣教計画があったこと、江戸と地方の役人の認識の違いや、潜伏キリシタンの洗礼などの式文の継承などについて話された。