14世紀、キリスト教会の「大ペスト」受容に学ぶ いかに記憶し、変革に結びつけるか 寄稿・片山 寛(西南学院大学神学部教授、西欧中世哲学専門)

キリスト教の歴史の中で最大の自然災害は14世紀半ば(1347~1350年)の大ペスト(黒死病)だったという点で多くの研究者が一致しています。この疫病では、当時のヨーロッパの人口の3分の1に当たる2千万人以上が死亡したと考えられています。ものすごい恐怖の記憶であって、今に至るまで「ペスト」にはぞっとするような言葉の響きがへばりついているのです。
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ペストに限らずどんな病気でも、中世の医療技術では病気にかかるとまず死を覚悟しなければなりませんでした。しかし問題は死そのものでなく、死に方であったのです。昔の人々は現代人ほど死を恐れていませんでした。時が来れば誰でも死ぬわけで、場合によっては死が救いでもあった。家族や友人に別れを告げ、終油の儀式をし、最後の聖体拝領を済ませる。そういった作法にかなった死に方(フィリップ・アリエスの言葉)を守れば、天国は誰にも約束されていたからです。
しかし黒死病の場合にはこれが守れませんでした。むしろ、もしかしたらこの人は地獄に真っ逆さまに落ちて行くのではないか、と思えるような死に方しかできない。それが中世の人々を本当に苦しめたのです。最初、脇の下や鼠蹊(そけい)部のぐりぐり(リンパ節)が腫れ、血の塊のように黒くなり、さらにそれが全身に広がり、ひどい場合は身体中真っ黒になってしまう。激しい頭痛があり、多くの患者が最後には錯乱状態になって、大声で意味の分からないことを叫びながら、家族とまともにお別れを言うこともできず苦しみ悶(もだ)えて死んだのです。発病から死までわずか数日で、致死率はほぼ7割。発病したらまず助かりませんでした。このような劇症は、後の19世紀に発見されたペスト菌には例がなく、今日でもペスト菌が黒死病の原因であることに疑問を持つ人もあります。
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当時の教会は、黒死病に対してどう立ち向かったのでしょうか。ありていに言えば、何も有効な手段は打てなかった。原因すらわからず、ただ祈るだけでした。ローマ教皇クレメンス6世は、外科医に命じてペストの犠牲者を解剖させたことと、公の礼拝でペストが終るよう祈ったこと、ユダヤ人への迫害をやめるよう教書を出した――ペストの原因はユダヤ人が井戸に毒を入れたことだという根も葉もないうわさが立ち、多くのユダヤ人市民が焚殺(ふんさつ)されていました――ことをしたぐらいで、どれもほとんど効果はありませんでした。
カトリックの聖職者は、患者の最期の告白を聴き、終油や聖体拝領(聖餐)の儀式をする義務があったのですが、患者と話す間に呼気感染してしまいました。それは劇症の肺ペストで、時には自分が告白を聴いた患者より早く、大量の血を吐いて死にました。、、、、、

2020年5月3日号に掲載