神学 礼拝自粛・オンライン化で問われる「教会」

コロナ禍での礼拝自粛やオンライン化で、教会はそのあり方の本質を問われている|6月26日オンラインで行われた日本宣教学会第15回全国研究会の研究発表で、石田学氏(ナザレン・小山教会牧師)が「コロナ禍とそれ以後の宣教的課題」をテーマに問題提起した。発表の一部を紹介する。

石田 学(いしだ・まなぶ)氏 日本ナザレン教団小山教会牧師、ナザレン神学校教授、日本聖書協会理事長

 

新型コロナウイルス感染の拡大が、教会にどのような衝撃を与え、なにをもたらしたか|教会がどのような対応を取り、そのことが現在および将来の教会の在り方をどう変えることになるのかを予測し論考する。教会がこれまでにおこなってきた、おもな二つの対応に絞って考えてみたい。礼拝の自粛・中止、そして礼拝のオンライン化である。

礼拝の自粛・中止

多くの教会が、新型コロナウイルス対策として、礼拝を中止し、あるいは縮小・様式の変更をおこなった。そのことについての説明で、ほとんどの教会は、礼拝が教会にとって本質的なことであるとの認識は共通している。それにもかかわらず、なぜ礼拝を中止するのか。その根底には「見えないものへの恐れ」がある。

そこに存在するかもしれない新型コロナウイルスへの恐れは、ひとつには自分たちにも感染リスクがあることであり、もうひとつは社会的迷惑の原因となることであろう。山口隆康は東神大パンフレット42『コロナパンデミックの中の教会形成』(東京神学大学出版委員会、2020年)において、隣人への配慮に基づく「愛の自由な行為」として礼拝自粛を位置付ける。

日本国内の教会は「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下「特措法」)による「緊急事態宣言」の対象にはなりませんし、「特措法」第四五条に基づく知事の「自粛要請」の対象にはなりません。わたしたちキリスト者を外側から拘束する法令はありません。…その中でキリスト者は、自律的判断を神から求められます。パウロが「ひとりでもそれによってつまずく者がいるならば肉を食べる自由を放棄してもよい」と断言するとき、神の前に隣人と共に生きようとするキリスト者の姿があります。(38ページ)

この確信には、わたしも賛同する。だが、礼拝の自粛という決断の背後には、隣人への愛とは分けて考えなければならない別の動機として、周囲の批判を恐れるということがあるのではなかろうか。両者を明確に分けることは困難かもしれない。しかし、「周囲への配慮」で礼拝を自粛することは、将来に禍根を残すことにならないかと恐れる。周囲の目や批判に教会がさらされる原因が、今回は新型コロナウイルスだが、将来何が理由になるかはわからないからである。

戦前・戦中のような事態が起きないとは言えず、その可能性はむしろ年々高まっている。ひとたび周囲への配慮を理由に礼拝の自粛・中止をおこなうとしたら、将来的にも別の理由で同じ判断をする先例を定めたことになる。そうであれば、礼拝の自粛という行為を取る前に、別の方策を考えて工夫することができたのではないか。たとえば、幾つもの教会が実施した、礼拝を複数回に分散して、それぞれに人数制限を設ける方法など。(略)

わたしにはあらゆる手立てを尽くす前に、苦渋の決断という形で礼拝の自粛・中止をすることは、教会としての存在意義を率先して放棄したように思われる。
礼拝の自粛・中止ではないが、多くの教会のとった対策は、礼拝の短縮と様式の変更であった。礼拝において、皆で賛美や唱和をすることが、飛沫対策で問題とされた。そのため、礼拝で賛美歌を歌うことを中止する教会、奏楽者だけが演奏して会衆は歌詞を黙読する教会、一節だけを歌う教会などに分かれた。聖晩餐は中止され、実施する場合も予めカプセルに入ったぶどう汁とホスチアを各自が受け取り、聖餐のときにそれぞれカプセルを開ける方法を採用する教会が増えた。必然的に、礼拝がいっそう説教中心になる傾向に拍車がかかることとなった。

礼拝の自粛・中止、また礼拝に集うことを控える人の増加に聖職者はどう対応したのであろうか。わたしも含め、多くの牧師が、毎週の週報と礼拝説教を欠席者に配信もしくは郵送するという働きを、新たに始めることとなった。(略)これもまた、苦渋の選択である。それは、礼拝のおもな目的を牧師自らが説教に限定してしまっているように感じるからである。今のところ、しないよりはまし、がこの働きを継続するわたし自身の動機である。

礼拝のオンライン化

「オンライン化」と表題に記したが、その中の多くの教会は実際には「礼拝説教のオンライン化」を意味している場合が多い。ここに疑問を感じざるを得ない。礼拝とはなにか、礼拝説教とはなにか。この根源的な問いを省察することなしに、今回の新型コロナウイルス禍は、多くの教会をオンライン化へと走らせたのではなかろうか。コロナ禍で三密を避けることが社会的要請となった2020年3月以降、多くの教会が競うように集会のオンライン配信をはじめた。礼拝はもちろん、教会学校、祈りの会などもオンラインでおこなわれ、オンラインお茶会や子どものイベントなども創意工夫が加えられてきた。

 

オンライン化することで、それまであまり意識してこなかった教会員、特に病気や身体的制約のために教会に集うことのできない人たちが礼拝に参加できるようになったことは事実であり、それは大きな収穫であった。オンライン化が教会に新たな伝道・牧会の可能性を拓(ひら)いたことは間違いない。そのことを認めたうえで、礼拝をオンライン化するということの意味と課題を検証し認識することは重要である。

オンライン礼拝の場合、画面に映るのは司式者と聖職者だけということが大半である。その礼拝に、はたして教会の本質である共同体性は成り立つのであろうか。礼拝が神とわたし、あるいは聖職者である教師とわたし、という一対一の対応の集合体であると考えるなら、聖職者だけが映し出される配信を礼拝とみなすこともあり得る。こうした礼拝理解の場合、共に賛美し共に詩編を唱和することは、礼拝にとって付属的あるいは二義的なものと見なされる。礼拝の中心は説教を聴くことだと考えるなら、オンラインによる聖職者と視聴者の一対一で礼拝が成立することになる。その場合、オンラインによる礼拝配信は、説教が礼拝だという印象を一段と進めることになる。、、、、、

(この後石田氏は、コロナ禍での教会の対応から宣教的課題も明らかになってきた、と語ります。2021年9月12日号掲載記事