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前回(10月23日号)は「第二の戒めのテクノロジーは、第一の戒めを補完する」といった内容を確認した。ジョン・ダイアー氏(ダラス神学校学部長兼教授)の講演最終回。(記事原題:Where Does Technology Fit in the Story of God? A Theology of Technology for Coders and Artists、Part2。配信元https://medium.com/faithtech

 

前回

☆新しいものではなく、 深みあるつながりを求める IT宣教の潮流・考察⑨ 10月23日号

☆テクノロジーはそれ自体が真理の現れ IT宣教の潮流・考察⑧ 9月11日号

☆テクノロジーは「道具」ではなく「物語」の一部だ IT宣教の潮流・考察⑦ 2022年08月07日号

☆テクノロジーは神の物語 のどこに位置する? IT宣教の潮流・考察⑥ 2022年07月31日号

☆悪を避けられないからこそ、 「弱さ」を「救い」に変える目を IT宣教の潮流・考察⑤ 2022年07月03日号

☆内容よりも、ツールそのものが人の注意力に影響 IT宣教の潮流・考察④ 2022年06月19日号 

☆テクノロジーを神の目的に使うには聖霊によって変えられることが必要 IT宣教の潮流・考察③ 2022年06月12日号

☆テクノロジーの絶望と希望の間を揺れ動く IT宣教の潮流・考察② いま注目のアプリ 聖書プロジェクトとは? 2022年06月05日号

テクノロジーそのものを救い主とする危険性には注意

 

神の似姿と神のようになる事

私が聖書について人に伝える時は、その物語が園で始まり、街で終わり、その間にはイエスという大きな希望があり、そして私たちがそれを担うクリエイターだと説明する。

しかし、もうひとつ伝えたいことがある。そこには人が作り出した物を愛してくれる方を救い主とするのではなく、テクノロジーそのものを救い主としてしまう危険性が潜んでいる、ということだ。

人は支配されており、そこにテクノロジーが登場してすべてを解決し、人はそこから解放されるという見方がある。聖書によると、人の尊厳は、私たちが神に似せて造られたことに基づいている。

だが、それを神のような存在になることと引き換えにしようとする大きな誘惑がある。アダムとエバが善悪の知識の実をつかもうとしたのは、何らかの方法で神のようになろうとしたからだ。そして、もっと神のようになるためには、今いる場所から手を伸ばす必要があると考えた。

しかし神が私たちに求めていることは、そのようなことではない。クリエイターとして、神に似せて造られた者として、私たちはすべての人の尊厳を守らなくてはならない。神と同じではないからといって、その尊厳が劣っているわけではないのだから。

ここで言いたいことはテクノロジーが私たちの救い主だという事ではなく、救い主なる神は私たちを被造物として愛しており、神の被造物である私たちが作り出す被造物もまた愛しているということである。

 

 神の霊に満たされ たクリエイター

最後に、これだけは伝えておきたい。教会は私たちを必要としている。クリエイターとしての私たちが必要なのだ。それは私たちの才能だけではなく、聖霊が私たちと共にいるからだ。私たちには、アプリやウェブサイト、あるいは自分の技術で作るものなど、どのような物であれコードを書く才能があるかもしれない。しかし、究極的に言えば私たちの最も深いところで働くのは、神の霊だ。

聖書の物語で、初めて神の霊に満たされた人はモーセではない。神の御言葉を与えられた人でもない。神に命じられてすべてを作るように召されたベツァルエル(出エジプト31章2節)という男だ。聖書の中で初めて神の霊に満たされた人は細工師だった。彼は、神から与えられた抽象的な真理の描写を、人々が理解できるような形にすることを命じられた。イスラエルの民がほとんど字が読めなかったことを考えると、これらの象徴、香り、表現はすべて、神がどのような方であるかを示すものだった。

私たちは今日、大部分がテクノロジーで出来た世界に生きている。そしてベツァルエルのような技術だけではなく、神の霊に満たされているからこそ、私たちは神のメッセージを届けることができるのだ。

聖書の中で初めて神の霊に満たされた人は細工師だった。
歴史の中にはベネディクト修道会などのような例が多く存在する。人が被造物を手にし、それを使って人類の繁栄を広げるために創造力を働かせたのだ。この記事の読者もまた同じような発想を持つことができるようになることを願っている。

 

 創造と聖餐

私たちが再び一緒に集まるようになり、御言葉と聖餐にあずかるようになった際にぜひ思い出して欲しいことは、神の御言葉が本やスクリーンというテクノロジーの上にある、ということだ。聖餐式も人の創造的な行為であり、ブドウや穀物のような自然のものでなく、人が作ったものと動作でイエスの行ったことを振り返り、これからイエスが来ることを待ちのぞむ。

物語の先を見ると、神が人の作ったものを贖い、人をある所に連れて行かれる。つまり今の私たちが作る物は御国で用いられるということだ。

§   §
私には船やコンサートで演奏するプロのミュージシャンの友人がいる。数年前、伝道師のビリー・グラハムが亡くなった時、彼は私にこう言った。「僕はビリー・グラハムのように偉大な功績はないし、多くの人に福音を伝えたこともないから、残念だよ。僕はただ、みんなが少しでも幸せな気分になれるような音楽を作ってきただけだ」

そこで私は「ビリー・グラハムは天国で今も神を賛美できるけど、彼の地上での働きは終わったんだよ。でももし君が死んだら、君は永遠に音楽を続けるんだ。永遠のクリエイターになることが君の使命なんだ」と答えた。

§  §
今だけでなく、すぐにやめるでもなく、将来の来たる日まで、神がすべてを正しくしてくださる日まで、これを行うことがクリエイターである私たちの使命だ。新しい王国のために創造力を働かせよう。人々を救い主へ導くために今こそ創造力を働かせよう。来たるべき都のために創造力を働かせよう。(おわり)
※一部編集して翻訳

2022年11月20日号掲載記事)