日本福音主義神学会東部部会 春期研究会発表より②

聖書の暴力的な記事をどのように解釈するか―――日本福音主義神学会東部部会が5月29日、「キリストにある平和」をテーマに開いた春期研究会から、山﨑ランサム和彦氏(聖契神学校教務主任)による「新約聖書の平和論」(前編:7月16日号、後編:7月30日号に掲載)に続いて、南野浩則氏(日本メノナイトブレザレン教団福音聖書神学校教務)による「旧約聖書の平和論」研究発表の概要を紹介する。

 

旧約聖書の戦争論―――共同体の維持、暴力の正当性の課題

「ヤハウェの戦い」 は抑圧からの解放

旧約テクストには戦争に関する記述を多く見ることができる。どのような地域や時代でも戦争や暴力はつねに存在し、古代イスラエルの歴史を記録した旧約テクストに戦争について述べられていても驚くことではない。むしろ聖書読者にとって問題は、旧約テクストが戦争や暴力に対して積極的に評価し推進する記述が見られることである。戦争や暴力を旧約テクストが認めるなら、神ヤハウェは戦争・暴力を推し進める神として理解される。キリスト者がメシア(キリスト)として告白するナザレのイエスは平和をつくるために生きたのであり、旧約テクストに記述された戦争や暴力とは矛盾する。

旧約テクストの戦争論を考える上で、出エジプト記15・3に記述されている「神ヤハウェは戦人(いくさびと)」との告白を起点としたい。神ヤハウェはイスラエルにとっては統治者である。統治者が重要な政治的な手段である戦争に指導的な役割を果たすことは当然であろう。そのような意味で、イスラエルが経験する戦争を「ヤハウェの戦い」と呼ぶことができる。旧約の物語として、この告白は「モーセの歌」の一部であり、葦の海の危機から助けられた出来事に関連づけられている。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として抑圧され、助けを求める声はヤハウェに届いた。神ヤハウェは苦しむイスラエルに共感して、救いのための行動を起こす。これは神ヤハウェの救済の視点を証言するもので、聖書が語る救いの枠組みとなっている。

神ヤハウェはモーセを派遣し、ファラオと平和的な交渉によってイスラエルの民を奴隷状態から解放しようと試みる。しかし交渉が不調に終わると暴力的な手段に訴え、ヤハウェの戦いが進められる(エジプトに対する災害)。ファラオは災害に屈する形でイスラエルの民を解放することを決断する。この決断を反故(ほご)にしたファラオは葦の海でイスラエルを追い詰めるが、神ヤハウェは主導権を握って暴力をもってエジプトを撃退する。

この物語におけるヤハウェの戦いの基本原理は抑圧からの解放である。戦いは無目的な殺害や破壊ではない。つねに政治的な目標を定めている。一方的に抑圧され、なんら抵抗する能力(武力)を持たないイスラエルを助けなくてはならない。それが暴力行使の目的となっている。この解放という概念は、ヤハウェの戦いにおいてつねに意識されていく。

ヤハウェの戦いにおける次の特徴は、イスラエルの神ヤハウェへの信従である。戦争の勝敗は政治力・経済力、戦略や戦術などの優劣に拠(よ)るものと通常考えられている。しかしヤハウェの戦いにおいては、ヤハウェ自身が戦争の結果を主導している。イスラエルが神ヤハウェに信従することによって勝利がもたらされる。逆にイスラエルが神ヤハウェを裏切ると敗北を経験する。ヤハウェの戦いは単なる戦争ではなくイスラエルの宗教行為として位置づけられる。

ヤハウェの戦いの第三の意義はイスラエル共同体の維持であり、そのための敵の殲滅(せんめつ)である。申命記20・17〜18には滅ぼすべき周辺民族のリストが挙げられている。その理由は、これらの民族がイスラエルに対して宗教的・社会的な影響を与えて堕落させるからである。これはイスラエルとしてのアイデンティティーを守ることを目的とし、共同体を維持することを意識している。イスラエルの観点からすれば、他民族の悪を制裁する意味づけもされ、現代の「正しい戦争」につながる。ここに、ヤハウェの聖戦思想を見出すことができる。

一方、ヤハウェの戦争はイスラエル共同体内部にも向かう。士師記の終盤、ベニヤミン族への制裁では、殲滅は考えられていない。ベニヤミン族は制裁に値するにしても、全滅させればイスラエル共同体のバランスが崩れてしまう。そこでベニヤミン族の再生について処置が行われている(ヨシュア記21・14)。

ヤハウェの戦いについて二つの点から評価したい。第一に、周辺民族を一方的に殲滅すべき悪と位置づけていること。神ヤハウェの名において他者を異質とみなして排除するイデオロギーは戦争に限らない。旧約テクストには、他民族の社会的・宗教的な習慣を拒絶する姿勢が多く記されている。異質である者を劣位に置き、敵として排除するためには、自らを絶対的に「正しい」とするイデオロギーが成立していなければならない。イスラエル共同体は、自己の絶対化という視点から神ヤハウェとの関係性を維持し、自らの生き残りの方策としている。自己を絶対化することでアイデンティティーの〝純粋性〟を守ろうとした。しかし、どのようなアイデンティティーも自己完結的に成立しているのではなく、他者との〝不純〟な関係によって成り立っている。

第二の評価は、暴力行使の正当性の課題。社会の安定には人々の生命・身体・財産が脅かされないことが大切な条件となる。そのために暴力的な手段を認めることが現実には起きる。それが警察権であったり軍隊であったりする。大きな暴力によって小さな暴力を封じ込めるという方策が採用される。

この基本的な考え方はヤハウェの戦いにも通じる。しかし注意すべきは、暴力自体は人間の存在や尊厳を破壊してしまうという事実である。暴力の常態化は人々に脅威を与える。暴力の負の側面を考慮すれば、どのような目的・形態であれ、暴力を簡単に容認することはできない。

イスラエル共同体は戦争や暴力によって一時的に社会的リスクを回避できるであろうが、長期的に見れば自らへの脅威を除くことはできなかった。戦争や暴力に依存することは、イスラエル共同体の存立そのものを危険にさらすことにつながっていったと考えられる。

 

旧約聖書の平和論―――戦争がないだけでなく平和をつくり出す義

社会的弱者の側に立ち 救済する正義

ヤハウェの戦いといった戦争や暴力を積極的に認める一方、旧約テクストは積極的な平和論を語る。それは、社会が抱える諸問題の根本的な解決は暴力によってはもたらされない、という見方に由来する、、、、、、、、、、

南野浩則氏

福音聖書神学校卒。M. Div.(Old Testament) Mennonite Bretheren Biblical Seminary, Fresno. CA. Ph. D. (Old Testament) University of Aberdeen, Scotland, UK.
現在、日本メノナイトブレザレン教団福音聖書神学校教務、日本メノナイトブレザレン教団石橋キリスト教会副牧師、大阪聖書学院非常勤講師、Asia Graduate School of Theology/Japan 講師。東京ミッション研究所理事。
著書に『旧約聖書の平和論―神は暴力・戦争を肯定するのか』『聖書を解釈するということ―神のことばを人の言語で読む』『十戒―シナイ契約・律法と山上の説教』(いのちのことば社)、ほか訳書。


旧約聖書の平和論ー神は暴力・戦争を肯定するのか
南野浩則著、いのちのことば社
四六判・288ページ
2,200円 税込