長老教会社会委「戦争を覚えるミニ集会」

敗戦から78年目を迎えた8月15日をはさみ、今年も各地で平和を求める集会、祈祷会、講演会などが開かれた。

8月8日には、日本長老教会社会委員会主催の「戦争を覚えるミニ集会・私の戦争体験」が、オンラインで開催され、1928年生まれの井上圭典氏(府中西原キリスト教会引退長老)が、自身の戦争体験を語った。
「戦前のあり方を、ある評論家は『天皇陛下万歳』と一言で表現した。それに対し、私たち世代からは『東洋平和のためならば、なんの命が惜しかろう』と軍歌の文句を付け加えたい」と、井上氏は語る。「戦前、軍国少年を貫き通し、戦死した者がいる。私と同一学年か、1年前後の世代は軍国少年を貫き通そうとしたが、学徒勤労動員中、あるいは軍学校在学中に敗戦となり、目標を失ってしまった挫折体験者が大半だ。私もその部類に属するが、生粋の軍国少年が受けたであろう挫折体験とは異なる」

戦争体験を語る井上氏

中学生になったばかりの頃、太平洋戦争に突入。2年生の時に英語教育廃止。軍事教練は座学と広場での訓練が行われ、教官が訓話中「畏れ多くも…」、「かしこくも…」と発言し瞬時沈黙、生徒は即座に背筋を伸ばし膝に手を置く。それを待って教官が「天皇陛下におかせられましては…」と話を続けた。「毎回、軍歌を斉唱しつつ広場に行進した。静岡県御殿場の板妻で二泊三日の実習訓練があり、第三匍匐(ほふく)=体勢を低くし四つんばいで前進=は死の苦しみだった。号令調整で大声を張り上げ、兵舎の粗悪な木製ベッドと毛布で寝起きし、軍隊食器で食事をするなど、兵隊気分を味わった」
中学3年生終了をもって学校を中退。昼間アルバイトをし、夜間算術塾と研数学館に通う日々を送る。その頃から日本は占領地で敗退を重ねた。44年の暮れからはB29による空襲が始まり、住宅街が一挙に廃墟に。45年初めから連日連夜、警戒警報、空襲警報が鳴り響き、5月には自宅が戦災で消失。移転を余儀なくされた。天皇の「玉音放送」は、三鷹の軍事工場で聞いた。
井上氏は「44年4月から45年8月の敗戦に至る、軍国主義日本が滅びゆく様をフリーな立場で見てきた。戦場となった都会を、昼夜見た。これは貴重な体験だと考えている」と話す。「私は幼児から中学3年まで十分過ぎるほど軍国教育を受けてきたので、『軍国少年』世代だ。だが、心底からの『軍国少年』ではなかった。『学校は教育の場で軍事教練の場ではない』と勝手な持論を抱き、非戦思想でなく『わがまま』を貫き通した。だが、もし戦争が続き、招集令状を受け取っていたら、嫌々ながら入営していたと想像できる」
最後に、こう結んだ。「かつては『大東亜共栄圏建設』のための聖戦参加は、『一旦緩急あれば義勇公に奉ずべし』との教育勅語の実践だと教えられた。軍人勅諭には『義は山嶽より重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ』とある。現在G7指導者達は『民主主義勝利』のためウクライナ軍に武器を注ぎ続け戦争は長期化している。大義のために人命を無視する構図が似ている。強く批判すべきだ」

2023年09月03日号   01面掲載記事)