ヘッドライン
[CSD]2012年10月14日号ヘッドライン
[CSD]2012年10月14日号《ヘッドライン》= 1面 ニュース=
◎キリストに妻がいた!?——「証拠のパピルス片発見」の学問的評価は…
★長期復興支援へ祈り合い——岩手沿岸100 キロ超 一堂に
= 2 面 ニュース=
◎全焼、震災こえ世界宣教の拠点に——いわきグローバル・ミッション・チャペル献堂
★キリストの愛で人々に仕え80年——長野・小布施の新生病院
★?キリストの妻?古文書は偽物——教皇庁機関紙などが否定
★<落ち穂>——日中関係についての勝海舟の想い
= 3 面 =
★<いのちへのまなざし>[30]笑顔とユーモア 記・柏木哲夫
★日本青年伝道会議レポート[2]:共通の興味が突破口「横から目線」で20年
★<オピニオン>韓国の怒りがわからぬ日本人 記・吉田 耕三
★<情報クリップ>催し情報・放送伝道ハイライトほか
= 4・5 面 広告特集/一般社団法人ジャパンミッションセンター =
★一人でも多くの人々がキリストの救いにあずかるために——日本宣教連合
= 6 面 仕事と信仰 =
★人を幸せにする経営[下]——新卒採用の7割 社員の口コミで
★首都圏大震災に備える[3]——東海、東南海、南海地震も東京に被害及ぼす
= 7 面 伝道・牧会を考える =
★教会ルポ<ここも神の御国なれば>[26]日本伝道隊・ハレルヤチャーチ高松?——
★<神の宣教>神のことばを神の世界へ[3]——クリストファー・ライト講演抄録
= 8 面 インサイドニュース =
◎文化交流が機縁で招請——清和女子中高等学校校長 黒田 朔 さん
◎キリストに妻がいた!?−−「証拠のパピルス片発見」の学問的評価は… =1210140101
9月18日、「キリストに妻がいた可能性を示す古文書発見」とのニュースが世界を駆けめぐった。イエスの発言を記したパピルス片に?私の妻?と記載があるというもの。だが、あたかもキリストに妻がいた証拠が発見されたかのような日本の報道とは裏腹に、米国では単に可能性を示すものが発見されただけ、という受け止めが主流。パピルス片が紀元4世紀のものだとしても、それだけではキリストに関する歴史的事実を証明したとは言えないからだ。贋作と指摘する学者もいる。
米国・タルボット神学大学院の新約学准教授ゲーリー・マニング博士が9月19日、「『キリストに妻がいたのか?』新たに発見されたグノーシス主義による古文書」と題し福音主義の立場からの見解をサイト上に公開した(上にURL)。岐阜純福音教会から同大学院に留学中の神学生・小山健さんが、その翻訳を「リバイバルジャパン」10月21日号に寄稿した。おもな論点を抄録すると…。
◇
古文書「イエスの妻の福音書」に関する発表をしたのは、米・ハーバード大学でグノーシス主義を研究するカレン・キング博士。古文書は非常に小さな紙片で、たった12行(写真上)。古代グノーシス派の本の一部とみられる。コプト語(古代エジプト語)で書かれ、紀元後4世紀頃のものとみられるが、おそらく紀元後2世紀後半に書かれたより古い原典を書き写したものと思われる。
グノーシス派は、彼ら自身がイエスに関する格言と考えたものを集めた短い書物をいくつか書いた。新約聖書の4つの福音書はキリストの目撃者による証言と直接的に強く結び合わされたイエス・キリストの完全な伝記であり、イエスの死と復活から25年から60年以内に書かれている。対照的にグノーシス主義の福音書は格言をまとめた短い書物で、キリストの伝記としては書かれていない。キリストの目撃者との関わりもなく、キリストから1世紀以上が経った後にグノーシス主義者たちによって書かれた。
この古文書はイエスの妻に関して、ほとんど何も述べていない。意味の理解できるものはごくわずかしかない。4行目にある「私の妻」が3行目の「マリア」に言及しているように見ることもできる。しかし、「マリア」という名が非常に一般的であったにもかかわらず、グノーシス主義者による他の文章に書かれている「マグダラのマリアとイエスの顕著な関係」の存在によって、あたかも今回発見された紙片に書かれているマリアが「マグダラのマリア」であるとみられている。
イエスはマグダラのマリアと結婚していたと断定するのは早計だ。「結婚」「接吻」「婚礼の部屋」は、グノーシス主義においては、彼らの「啓蒙」や「入会儀式」と関連した比喩表現だった。「イエスの妻の福音書」はグノーシス主義的「比喩表現」として使われているように思われる。
グノーシス主義は2世紀まで存在せず、イエスの格言を自ら作り上げることで有名だ。この古文書は本当のイエス・キリストに関して何一つ、私たちに語っていない。
◎全焼、震災こえ世界宣教の拠点に−−いわきグローバル・ミッション・チャペル献堂=1210140201
旧会堂では火事、新会堂では震災と多難であったいわき市の単立・平キリスト福音教会(グローバル・ミッション・センター、森章牧師)は震災後、救援拠点として国内外のボランティアが世界約40か国から延べ1万5千人訪れた。元パチンコ店であった新会堂の改築完成記念感謝会(献堂式)が9月15日、29日に開かれ、国内外の教会関係者、震災支援に関わった人々が集まり、神に感謝するとともに今後の世界宣教への使命を確認した。
同教会は福島県沿岸(浜通り)を中心に活動した東洋福音宣教会(EOM)の宣教師、クヌッツン氏によって1986年に設立。クヌッツン氏帰国後は森章・アニケン夫妻が引き継いだ。地域は因習によるつながりが強く苦労も多かったが、救われる人は起きた。
同教会の旧会堂は09年に火事で全焼した。森牧師は祈りの中で「新しい季節に入りなさい」という語りかけを受け励まされる。市内の他教会から礼拝場所の提供、全国からの献金に支えられた。半年後には教会員の所有で元パチンコ店の建物を購入。改築のためのローンが決まった矢先に東日本大震災が起きた。
原発事故の不安で市内のNPOなどが避難する中、牧師や伝道師らが国内外につながりを持っていたこともあり、支援が集まった。建物の損傷は少なく、水道電気も無事だったため、早くから支援拠点となり、ピーク時は500100人のボランティアが常時泊まった。
礼拝堂に物資を置いたが、初め森牧師はためらいがあった。だが祈りの中で「それも礼拝だ」と神から語りかけられたという。「きれいな建物の中で、楽器で賛美することだけが礼拝ではない。必要がある人のところに物資をとどけることも礼拝だ。イエスの愛を持ってでかけるところに礼拝がある」と理解した。
「震災後、分かったことは神の語りかけを信じるということ。何かをする前に主を知り、祈ることが大事」
と語った。同教会の昨年のテーマ聖句、イザヤ54章2~5節を引用し、「この国で神のみこころがなされるように。東北の実際に荒れ果てた土地に再び人が住み、心が荒れ果てた日本が、神が住む所となるように祈ってください」と述べた。
29日はEOMノルウェー本部総主事のローアル・フォーレン氏が挨拶し、ローマ8章35~37節を引用して「火事も津波も神の愛を引き離さない。問題の中でも勝利以上のものを手に入れられる。主が助けてくださった経験を通して福音が宣べ伝えられるべく、イエスのみ名によって用いられるよう祈っています」と励ました。
新会堂は1階に礼拝堂があり、「臨在のセンター」として「主の臨在が現され、町に流れ出るように」と願いを込める。また安心を感じられる「平和のセンター」として書店、カフェも設けた。2、3階は様々なスペースがあり、「お金がない人でも滞在、充電してもらい、新しいインスピレーションを得て、世界に送り出される『宣教のセンター』」として用いられることを願う。
◎文化交流が機縁で招請−−清和女子中高等学校校長 黒田 朔 さん=1210140801
「学校の先生と牧師にはならないと言って結婚したのに、牧師を42年、その挙げ句に学校の先生。これはもう神様のシナリオとしか言いようがありません」。そう語るのは今年4月、高知県南国市にあるキリスト教主義学校「清和女子中高等学校」の校長に就任した黒田朔さんだ。黒田さんは、高知城天守閣を模した会堂で知られるハワイ・ホノルル市内にあるマキキ聖城キリスト教会の牧師を28年務め、2011年に引退。帰国を機に牧師休暇の時などに説教に駆けつける「牧会おたすけマン」ミニストリーを立ち上げ活動していた。そんな中、舞い込んで来たのが、「清和女子中高等学校の校長に」という話だった。この背後には、「高知城」を接点に始まったハワイと高知との親密な文化交流があった。
高知城を模したマキキ聖城キリスト教会の会堂は1932年、土佐藩藩士あがりの日本人宣教師・奥村多喜衛が建てた。当時、「城は軍国主義の象徴」と反対意見もあったが、「神はわが城、わがたかき櫓なり」(詩篇18・2、文語訳)の御言葉を掲げ、「城は人をして仰いで崇厳の念を起こさしめる。キリスト教の神、天主を拝むところが天守閣だ」と説明した。
奥村は1894年、ハワイに渡り、日系移民への伝道に従事。伝道だけでなく、日本人の日常生活全般の世話もした。日系人の生活向上のため日本人学校や職業訓練学校、病院などを開設。また、日本人移民の社会的地位向上と同化不可民族という誤解を払拭し、善良で優秀かつ不可欠な日系アメリカ市民を育て上げるという目標で、高等教育のために「奥村ホーム」の開設、良いアメリカ市民育成の「日系市民会議」の開催、日系人のアメリカ同化のための啓発運動を行った。やがて、それらの努力が第二次世界大戦の二世部隊誕生となり、その勲功により、戦後の日系人の立場が守られた。奥村は戦後も太平洋の架け橋としての役割を果たしていった。
一方、黒田牧師は83年、マキキ聖城キリスト教会に赴任。当時は奥村を知る75歳ぐらいの元気な一世信徒が多くおり、黒田牧師はそんな一世の信徒たちの世話と、信仰継承のための若者の獲得という2つのミニストリーに力を注いでいた。そんな中、フライトアテンダントとして高知とホノルルを往復していた一人の女性信徒が、マキキ聖城キリスト教会と高知城がそっくりなのに驚いた。「ぜひ高知に来てほしい」と言われ89年、同教会のユースクワイアを連れ10日間のミッションツアーを敢行。高知を訪れ、県知事にホノルル知事の親書を届けた。こうして同教会と高知との草の根交流が始まった。
その後、高知大学英語教師の中川芙佐さんが、ハワイの移民について調べる中で奥村に興味をもった。この奥村について、1年3か月にわたり高知新聞の連載で紹介。黒田牧師は資料提供などで協力した。この連載が00年、『土佐からハワイへ』という1冊の本になり、同年、「地元出身の奥村の業績を、県民に広く知ってもらおう」と「奥村多喜衛とハワイ日系移民展」が高知で開催。ハワイと高知とのつながりが強まった。
さらにマキキ聖城キリスト教会創立100周年を迎えた04年から、同教会と土佐塾中高等学校の交流が始まり、以後毎年10~15人の生徒が同教会の春のユースキャンプに来たり、教会から10人の高校生アンバサダーチームを送るようになるなど、「交流が教会にも学校にも励ましとなった」。土佐塾中高等学校だけでなく、高知県内の他の大学、高校、中学からも学生が同教会を訪れるようになった。その中に清和女子中高等学校の生徒もいた。この交流は「レインボーコネクション」と命名され、今も続いている。
黒田さんは昨年4月、「レインボーコネクションをもう少し育てたかったなあ」という心残りがありながらも、マキキ聖城キリスト教会を引退。その1年後、清和女子中高等学校の西澤邦輔理事長から「ぜひ、校長に」という話が届いた。
清和女子中高等学校は1901年、アニー・ダウド宣教師が2人の貧しい少女を引き取り、世話をしたのが始まりで、111年の歴史をもつ。校名は「心の清い人々は、幸いである。平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5・8、9)から取られ、教育モットーは「一人ひとりが生かされ輝く人として世界に送り出す」。高知県下唯一のキリスト教主義学校で教職員全員クリスチャンでもある。
黒田さんは「どのキリスト教主義学校でも、クリスチャンのいい先生を集めるのが難しい時代に、クリスチャンコードを100%守ろうとしている学校が地方にある」ことに驚いた。西澤理事長も「クリスチャンコードを100%守って潰れるなら、それなりの意義がある。それをゆるめて他校と競合していくのは清和の存在理由ではない」という考えだった。「教育が素人の私でも、何かお手伝いできるかな」と、黒田さんは校長就任を承諾した。
清和女子中高等学校は月曜日から金曜日まで毎朝15分、チャペルの時間がある。月曜が黒田校長、火曜は聖書科の先生、水曜は近隣教会の牧師、木・金曜は一般の教職員が担当している。
黒田校長は毎週、県内の違う教会を訪れては、挨拶をする。「戦時中、キリスト教排斥の動きが強まり、高等学校の申請が不許可となった時代にも、日基教団・高知教会で学校を続け、体制になびかなかった。地域教会の支えがあって清和の今日があるのです」
教職員の評価もいい。「温厚で話をよく聞いてくれる。生徒に安心感を与えておられ、私たちも働きやすい」と、すでに信頼を得ているようだ。
清和女子中高等学校の生徒数は130人。うち中学生が22人と極端に少ない。中学は公立で、高校は清和で、という生徒がほとんどだ。
黒田さんは「中学の1学年は、少なくとも15人ぐらいにしたい。15人いれば、高校で50人入ってきても霊的なリーダーシップが取れる」と語る。そのために、県内だけでなく、他府県からの生徒受け入れも視野に入れ、清和をアピールしていきたいと願う。「ぜひ皆さん、清和に生徒を送ってください。キリスト教精神で大切に教育させていただきます」
ウェブサイトhttp://seiwa-girl.ed.jp/