[CSD]2001年4月8日号《ヘッドライン》

[CSD]2001年4月8日号
《ヘッドライン》
 = 1面 =
★会堂 床が隆起——芸予地震で教会施設にも被害
★オウム松本被告の子ら学校へ——クリスチャンの支援広がる中、龍ヶ崎市が就学許可
★ギリシャ正教が教皇訪問を容認——東西両教会 接近か
★オーストラリア:アジア・太平洋地域の聖書普及へ協力強化
★<講壇に立つ女性たち>[12]さや教会牧師 篠浦 千史さん(下)
★<落穂抄>幼子のような信仰
 = 2 面 =
◎「神はいる」が前提の教育——ホームスクーリングに注目高まる
◎改革派中部中会:「子供カテキズム」教案誌を創刊——ウエストミンスター信仰基準で子どもを導く
★プエルトリコ:米海軍が演習場の使用一時停止
★色黒でたくましいイエス——英BBCが番組放送
★スリランカ:礼拝に行く途中 暴徒襲う——3人重傷
★ドイツ:教皇の役割でルーテル派内に見解対立
★スリランカ:仏教とヒンドゥー教の和解に教会が一役
★<世界の出来事フラッシュ>インド、ジンバブエ
★<教界の動き>高山正治氏、同盟基督・横須賀中央教会ほか
★<論説>新世紀「金の燭台」教会へ 記・有賀 喜一
 = 3 面 =
◎公開討論会:「日本宣教と天皇(制)」めぐり激論
 = 4 面 全面広告=
★UBS DAY——2001年5月9日
 = 5 面 日本宣教のパイオニア=
★戦後最初の韓国人宣教師——金 徳成
 = 6 面 宿泊特集=
★だれもがくつろげる雰囲気——岩田ペンション
★広大な敷地に各種施設——清泉寮
★レーゲルゴードを増改築し一体化——浜名湖バイブルキャンプ
 = 7 面 =
★台湾原住民から流れた福音——アイヌ民独との交流で来日
★賛美セミナーでプライドの危険性を強調——ロン・ケノリー氏
◎FEBC:インターネット放送開始——番組をそのまま配信
★ミクタム:子ども英語ゴスペルCD——発売記念5人にプレゼント
★「ざわめき倶楽部メンバーズ」発足——参加者大募集
 = 8 面 =
★<聖書66巻>コロサイ人への手紙 上にあるものを求めなさい 記・奥田 久良
★<書評>『三谷種吉 ただ信ぜよ』榊原正人・三谷幸子共著(いのちのことば社、2000円)
★<新刊書紹介>『子ども日々の光』野辺地 天馬著(日本ホーリネス教団出版局、800円)
★<新刊書紹介>『科学者は神を信じられるか』ジョン・ポーキングホーン著(講談社、800円)
★<情報クリップ>催し情報ほか

「神はいる」が前提の教育−−ホームスクーリングに注目高まる0104080201

「神様がいることを前提とした教育」をするためにとチャーチ&ホームスクーリングを進める会「チア・にっぽん」(稲葉寛夫代表)主催のコンベンションが3月14日から仙台・大阪・東京の3つの会場で開かれた。
3か所を合わせて延べ850人の参加があり、日本においてもホームスクーリングやチャーチスクールの認知度が高まりつつあることが伺えた。
聖書を土台とし、一般科目も含めて親が子どもに教えるスタイル(ホームスクーリング)はアメリカではすでに200万人が実践しており、何万人も参加するコンベンションも数多く開かれている。
昨年5月、日本でもこの教育方法やこの教育から聖書に立ち返るムーブメントを紹介しようと「チア・にっぽん」が発足され、同主催初めてのコンベンション(基調講演と約25の分科会)となった。
今回はホームスクーリングやチャーチスクールの実践を始めた人々や教会、新年度からの実施に備えている人々の参加が多く見られたことが特徴だった。 「チア・にっぽん」初のコンベンションに850人 聖書に基づいた教科書シリーズの第一弾「こころを育てるために—聖書—」(ホームスクーリング・ビジョン株式会社=「チア・にっぽん」内)も、このコンベンションに合わせて発刊(米・ボブ・ジョーンズ大学の教科書を訳した)された(本紙3月25日号既報)。
具体的にホームスクーリングを進める上での日本の実践例もコンベンション内の分科会で数多く紹介され、通信教育などで高校卒業資格をとってホームスクーリングやチャーチスクールをしていることや、図書館、体育館など公共施設を使っての実践例なども紹介された。
コンベンションで基調講演を行ったダグ・フィリップ氏(ファミリー・ビジョン代表、米各地のホームスクーリングコンベンションで活躍中のスピーカー)は「親が子どものため時間をさくことがとても大切だ」と話した。
「聖書を基準に生きることを子どもたちにしっかり教えるべきです」。
またホームスクーリングとリバイバルとの関係について言及し、「心をつくして神に従い、第一にすべきものを第一とした時、つまり日々自分の子どもに福音を語った時に、家族、教会そして社会にリバイバルが起きます」と話した。 三浦光世さんも講演 聖書に基づく家族の絆語る 特別講演として作家・三浦綾子さんの夫で歌人の三浦光世さんが聖書に基づいた家族、夫婦の絆について語り、「神様は私たちが主にあって教育することを命じ、それを助けようとしておられる」と話した。
稲葉さんは「ホームスクーリングは聖書に立ち返るムーブメントです」と言及。
分科会の中で参加者から「神第一とし、親が子供に聖書に基づいた教育をすることが大切であることはわかるが、実際日本の親たちは忙しく実現は困難では?」という問いかけに「確かに現状の生活のスタイル、価値観を維持しながら、チャーチ&ホームスクーリングを入れ込むことは難しいです。
しかし、女性の社会進出がもっと進んでいるアメリカで逆に広がっていった背景には、聖書の価値観に帰って、すべての生活の優先順位を見直すということが各夫婦単位で行われてきました。
親が主と共に子どもに費やす時間が優先か、それ以外の活動が優先か、聖書に照らし合わせながら、見つめ直していったわけです。
生活スタイルを変え、親が子どもに使う時間というある意味『犠牲』ともいえることを『特権』に変えていったのです。
このコンセプトを押さえながら最初は少しずつ、週2時間からのチャーチ&ホームスクーリングを体験されていったら、その喜びの意義、そして祝福がどれだけ深いものか、わかってもらえると思います」と話した。
教科書、講演テープなどの申し込み、問い合わせはTEL03・5915・1223、FAX03・5915・1224(「チア・にっぽん」事務局)。

改革派中部中会:「子供カテキズム」教案誌を創刊−−ウエストミンスター信仰基準で子どもを導く01040

「日本キリスト改革派教会のウェストミンスター信仰基準に表現された歴史的改革派信仰をはっきりと打ち出した『教案誌』で子どもたちを導きたい」——日曜学校教師の真剣な「声」から『子どもカテキズム』と『日曜学校教案誌』第1号が創刊された。
同教会中部中会教育委員会の発行、教案誌は季刊で第1号は2001年4・5・6月号。
 『子どもカテキズム』は、教会の教えの根本となる使徒信条、ニカイア信条、主の祈り、十戒を掲載。
ウェストミンスター小教理問答をベースにしながら牧師の相馬伸郎氏がイラストを添え、「私たちは何のために生きるのですか?」など、子どもに分かりやすいように書き下ろした85項の問答で構成されている。
 『日曜学校教案誌』は、主に日曜学校教師のテキストとして、『子どもカテキズム』に則って2年サイクルのカリキュラムを作成。
分級展開例は幼稚科、小学科下級、中級、上級、中学科とあり、現在日曜学校で教師をしている信徒たちが執筆を担当。
ゲームや工作なども教師たちの独自のアイデアを盛り込んでいる。
 「福音主義教会が最も大切にしてきた、カテキズム教育、教理教育を改めて中心に打ち出すことで、子どもたちが自分の言葉で祈り、信仰を言い表すことができるようになるのがねらいです」と相馬氏は言う。
 教案は、説教の完全な原稿があるので、教師の勉強にもなる。
また、イースターやペンテコステなど教会行事の豆知識も付いている。
イラストからレイアウトまですべて教会員が奉仕しており、親しみやすさがある。
既に他の教会、教派からも問い合わせの連絡が多いという。
 2年間のカテキズム教育のカリキュラムを終えたら、3年目からは救済史に即したカリキュラムを展開する予定だ。
『子どもカテキズム』300円、『日曜学校教案誌』900円。
申し込みなど連絡先は、津島教会の春名義行牧師まで。
TEL&FAX0567・26・4221。
〒496-0038愛知県津島市橘町2—30。
名古屋市内のキリスト教書店でも販売中。

公開討論会:「日本宣教と天皇(制)」めぐり激論0104080301

日本宣教が進まないのはクリスチャンが天皇制に反対するからか。
それとも天皇制は日本宣教の阻害要因なのか——「日本宣教と天皇(制)」をテーマに相反する見解をぶつけあう珍しい公開討論会が、3月26日、東京・千代田区のお茶の水クリスチャンセンターであった。
マルコーシュ・パブリケーションが発行する月刊「ハーザー」誌上で、同誌編集長の笹井大庸氏が発表した問題提起が火付け役。
それに正面から反論した石黒イサク氏(美濃ミッション・富田浜聖書教会牧師)と論戦した。
両者の主張の概要を紹介する。 イエス様への忠誠をすり替える風土に迎合するのが宣教でない ●美濃ミッション牧師/石黒イサク氏 「天皇制」は「キリストの王国」に対するすり替えに過ぎない。
イエス様、神様に向けなければならない礼拝、崇敬、服従を、天皇にすげ替えている。
 大化改新以前には「天皇」の呼称はなかった。
古事記、日本書紀の712年以降、権威づけのために神話を用いた。
形として天皇制は1500年かもしれないが、実際に天皇が国を統治していたのは約300年に過ぎない。
中世には武士が権威づけのために天皇を利用した。
 人々は本当に天皇をあがめてはいない。
天皇を尊重すれば人々が福音に耳を傾けてくれるかといえば「ノー」である。
天皇制はキリストにとって代わる「宗教」だ。
明治維新の時、庶民は天皇がだれかも知らなかった。
そこで子どもたちの教育から始めた。
それが臣民教育だ。
学校に御真影を配置し、教育勅語を発布し、天皇崇拝を教え込んだ。
「おまえたちは天皇の赤子である。
天皇のために死んでこい」と教え込まれた。
 (同じ思想は)象徴天皇制でも尾を引いている。
国民の中に「臣」=支配層と「民」=被支配層を作り、臣が天皇を利用してうまい汁を吸う。
それが天皇制であり、その踏み絵が神社参拝、日の丸・君が代だ。
 学校を教会のところにあてはめ、教育勅語を聖書の位置に置き、十字架を日の丸・御真影に代え、賛美歌として君が代、海ゆかばを用いた。
昔、御真影を置いたところに日の丸を置いて現在卒業式・入学式をやっている。
なぜ日の丸に向かって礼をするのか? 表面上でいいから天皇に忠誠を示しなさいというのが天皇制だ。
天皇制の怖さが日の丸・君が代の強制に表れている。
 みんなやっているからやれ——これが天皇制の考え方だ。
今では迫害はないと言うが、目に見えない形で黙って排除するのは日本においてきつい迫害である。
   美濃ミッションの神社参拝拒否事件(1面「落穂抄」参照)では、町中に「国体擁護のため美濃ミッションを排撃しませう」というポスターが張られた。
1930年、一度目の排撃運動の時には、キリスト教界で30以上の団体が神社参拝は偶像崇拝だと言った。
だが1933年、伊勢神宮参拝拒否事件の時には、声をあげる団体はゼロになった。
沈黙していたほうが得策だということだ。
妥協者はいつも迫害者の側に立つ。
 天皇制を利用すれば福音宣教が広がるか——現実は逆なのだ。
日本の風土は、これさえやっておけば(天皇に頭を下げておけば)じゃましないからいいよ、という。
この手の妥協が、福音宣教を日本で妨げている。
  イエス様に対する忠誠はどうなるのか? 戦前の教会に対する弾圧は、信仰や礼拝が禁止されたわけではない。
それはやっていいけれど、国民儀礼として宮城遙拝、君が代をやってくれ、と言ったのだ。
イエス様に向けるべき愛と誠実を、天皇に向けるように求めたのである。
それに迎合することが宣教ではない。
バビロンでネブカデネザルの像を拝することは、国民儀礼だからやりなさいと言われた。
しかし、ヘブルの三青年はやらなかった。
 キリストにとって代わろうとするものは、何であれ偶像崇拝になる。
ヨハネは、愛を奪うものは偶像だと言っている。
十戒は「ヤハウェ以外の何ものをも神としてはならない」という。
それに対し八百万の神々に何を加えてもいいのが日本だ。
 日本人に伝道していく時、いわゆる神々ではなく、天地をお造りになった(唯一の)神がおられるというアプローチが大切。
(あれもこれもでなく)イエス様のほうがすばらしいのだと伝える、ここに導くのが伝道だ。 福音を届けるための贖いの賜物文化を否定しては宣教できない ●「ハーザー」編集長/笹井大庸氏 私はかつて日蓮系の仏教徒で、右翼の運動をしていた。
クリスチャンに回心した時、たいへんなかっとうがあったのが天皇(制)の問題だった。
これは日本文化そのものの問題であり、少なくとも天皇制には1500年の歴史がある。
この問題を無視して日本の宣教は語れないと示された。
これを否定的にとらえたら、相手の国の文化を滅ぼしてキリスト教国をうち立てる、という欧米の宣教の誤りと同じになってしまう。
 日本の宣教が進まない原因は天皇制を否定する宣教の仕方にあるのではないか。
これが「天皇」を肯定的にとらえて宣教を考えるようになった理由である。
 使徒行伝17章22節以下にパウロのアレオパゴスでのメッセージがある。
彼は「ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のように」を実践した。
私たちもパウロと同じアプローチができるのではないか。
26節以下を見ると、時代や国境は神が定めた。
国も文化も神がつくり与えられているもの、ということだ。
それを発見して聖書的な意味を見いだしていくべきだ。
 霊の戦いを行ったジョン・ドーソンやピーター・ワグナーが言い出したことだが、戦略的レベルの霊の戦いには、都市のよい賜物を発見してあげないといけないという。
それを「贖いの賜物」と呼んでいるが、天皇(制)はその「贖いの賜物」ではないか。
 明治のある時期から戦争終結にかけての軍国主義は天皇制をゆがんだ形で表したものであり、本来の天皇制はそういうものではない。
天皇制を「贖いの賜物」ととらえて宣教することは聖書的であり、不自然なことではない。
 天皇制をだれも滅ぼすことはできなかった。
なぜ続いてきたのか。
天皇制は宗教ではない。
弾圧事件で美濃ミッションは立派だったが、天皇制が本質的に弾圧する体質をもっているわけではない。
 終戦の決断は昭和天皇がした。
天皇がいかに戦争をやめさせようとしたか、資料はたくさんある。
天皇がマッカーサーのところに行って、「この戦争は私の責任。
国民を処罰しないでほしい」と言ったことに感動する。
天皇制がよい形で機能した例だ。
明治維新前夜の日本は、近代国家を性急につくらなければ東南アジアと同じように西洋の植民地になっていただろう。
すべて天皇制が悪くて他が正しいという「敗戦ショック」から立ち直ってほしい。
 日本の国の根本的な成り立ちからいって、天皇(制)が福音を届けるための「贖いの賜物」になっている。
皇室に不思議な形で福音が届いている。
天皇がクリスチャンになるのはすばらしいことだ。
天皇制は日本にあったほうが宣教によいものだ。
 日本の天皇制はゆるやかな王制である。
それを利用する悪いヤツはいつの時代にもいる。
それをもってすべてダメというのではなく、よいところを取り上げるべきだ。
天皇の名の下に私がもし神社参拝を強要されたら拒否する。
偶像礼拝をする気はない。
 君が代は天皇を神として礼賛した歌、とは思えない。
現憲法に明記された日本国民統合の象徴であることを認めるなら、「千代に八千代にさかえ」を願うのは当然。
それに反対するキリスト教界の論調は左翼的に見える。
何でも「天皇を神として礼拝する」と結びつけるのは行き過ぎだ。
 クリスチャンは二つを除いて国法に従うべきだ。
一つは偶像礼拝を強要された場合。
もう一つは福音宣教を禁止された場合。
日の丸に一礼することは偶像礼拝ではないのだから問題ない。
君が代を強要されたというが、逮捕されたわけではないのだから。
(討論の詳報は月刊誌「ハーザー」6月号以降に掲載予定)

FEBC:インターネット放送開始−−番組をそのまま配信0104080703

AM(中波)で聞ける日本唯一のキリスト教ラジオ放送局・日本FEBC(小林八郎代表)は、4月1日から「FEBCインターネット放送」を開始した。
放送局が番組を、そのままインターネットで配信する仕組みで、混信もない明瞭な音で、一日中都合の良い時に、希望の番組を、繰り返し聞くことができる。
小林さんは「放送局が、デイリーの番組をそのままインターネットで無償で配信するのは、日本で初めての画期的な試み」と語る。
 メリットは、聞き手の都合に合わせられること。
「従来は、決まった時間に聞いてもらっていたが、インターネット放送は聞く側の都合に合わせられる」。
電波が届かない地域でも、ホームページ(HP)を開けば聞くことができる。
「電波の届かない地域、情報の少ない地方にも、福音を届けることができる。
宣教がさらに広がる」と小林さんは喜ぶ。
 この放送については、2年前から話し合い、昨年から準備が始まった。
「できなかったら、それでいい。
自分たちでやるだけやってみよう」と専門家に依頼せず、コンピューターに詳しいスタッフを中心に、全員でHP上に音声ソフトを構築し、ハードの交渉を行い、4月の「FEBCインターネット放送」開設に至った。
 「FEBCは経済的見込みがあって始めたことは一つもない。
今回も信仰です」と小林さん。
「手段は時代とともに変わる。
ウェスレーの時代は馬に乗って伝道した。
FEBCも短波から中波、インターネットへと、時代とともに道具を変えていく。
しかし、中身はいつも、十字架の恵みと赦し、喜びを伝えること。
一番弱い、貧しい人に光が届くこと。
それがFEBCの使命です」と笑顔で語った。
 【聞き方】FEBCのホームページ(http://www.febcjp.com/)を開き、Help Deskをクリックする。
そこに「放送の聴き方」の説明がある。
放送を聞くためには「Windows Media Player」というソフトが必要で、もしなければダウンロードとインストールが必要。
Winndows版とMacintosh版用にダウンロードの仕方も解説している。
ソフトをダウンロードしたら、聞きたい番組の「Play」をクリックすればOK。
日本FEBCでは「もし、音が出ないようなら相談に応ずる」という。
問い合わせはTel.042・252・1566、FAX042・252・1586、日本FEBCまで。