パプーシャは15歳のとき、自分の父親の兄と結婚させられた © ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013

神聖ローマ帝国時代から迫害をのがれ’流浪の民’として生きてきたジプシー。自分たちの国を主張せず、国境もこだわらずに広い地域を旅しながら音楽や舞踊などで暮らす民。ジプシー独自の文化と言語は持っているが、文字は持たず自分たちのコミュニティーの暮らしがガジェ(ジプシーでない人たち)に漏れるのを嫌っていた。そうしたジプシーの心に浮かぶ言葉をつむぎ、詩として初めて文字に書き綴っていた女性の物語は、マイノリティな人々のアイデンティティと文化に敬意を持ちつつ共に生きる知恵を探る今日的な課題にも深い啓発を与えている。

冬枯れの森を抜け次の宿営地へと進むジプシーのクンパニア(キャラバン)のロングショット。土地の富豪宅でのパーティで演奏するシャンデリアの目映さ。森の深い緑の中に揺らぐ焚火の灯りと温もり…。どのシーンを切り取っても人間のいとなみと五彩を感じさせられる美しいモノクロームの映像に惹きつけられる。

初めてジプシーの詩人として知られる’パプーシャ’(ヨビタ・ブドニク)。その出生のシークエンスも印象的。2010年。雪のちらつく夜。ショーウインドウの少女の人形に見入る若い女性。彼女は一人の女子を産み、’パプーシャ’(ジプシーのマロニ語で人形の意)と名づける。その名を聞いて女呪術師のは、その赤ん坊は恥さらしな人間になるかもしれないとつぶやく。
1971年。鶏を盗んだ罪で刑務所に収監されているパプーシャは、音楽会の会場へ役人に連れらえていく。パプーシャが書いた詩がオペラの作品になり演奏される。いわば晴れ舞台だが、パプーシャは気が進まない表情のまま、強制的に同席させられる。そこからパプーシャの物語が語られていく。
1949年。パプーシャの家族が旅するクンパニアに、楽器を修理するポーランド人が一人の男を連れてやってきた。秘密警察に抵抗してワルシャワを逃れてきた詩人のイェジ・フィツォフスキ(アントニ・パブリツキ)。クンパニアの仲間たちは、ジプシーでないガジョ(よそ者)をかくまうのは自分たちの秘密が漏れるのではないかと消極的だ。だが、パプーシャの夫ディオニズィ(ズビグニェフ・バレリシ)は面白がり同行させる。養子のタジャン(セバスティアン・ベソウォフスキ)もフィツォフスキになつき、旅が続く。ジプシーの暮らしを理解し始めたフィツォフスキは、文字を持たないジプシーのなかで、パプーシャが自分の詩を紙片いっぱいに書き綴っているのに気付く。
1921年。少女のパプーシャは、盗賊が木の洞に隠した品物の中に印刷された紙をみつけ、その文字に強く興味を持った。夫にもジプシーの秘密をガジェに漏らす気かと諌められるが、白人の商店の女主人に盗んだ鶏をお礼に渡して習いつづける。だが、ある日町で、ガジェとジプシー青年とがもめ事を起こし、夜に馬車を焼き討ちされた。パプーシャは、その事件が文字を習っているために起きた天罰のように思われた。文字は、やはりガジェの呪文であって、パプーシャを恥さらしにするものなのだろうか…。

コミュニティーを追放されたパプーシャをイジェは尋ねたが… © ARGOMEDIA Sp. z o.o. TVP S.A. CANAL+ Studio Filmowe KADR 2013

ジプシーの詩情と暮らしが、ロングショットを多用したモノクロームの映像美で語られる。パプーシャことブロニスワヴァ・バイス(1910―1987年)が生きた時代は、ポーランドがプロシア、ポーランド、オーストリアなどに割譲されていたときに生まれ、第1次大戦後の独立から第2次大戦後の共産主義国家によるジプシー同化政策に抑圧されていく激動期。そのうねりのなかで、1950年代半ばにイェジ・フィツォフスキはパプーシャの詩を翻訳出版し、ジプシーの文化研究の本なども出版する。それは同化政策の遂行にも利用されていく歴史の悲哀。

パプーシャとイェジ・フィツォフスキの物語を観ていて、ふとアイヌ神謡(ユカラ)を翻訳した知里幸恵(1903―1922年)と国語学者・金田一京助の出会いを想い起させられた。キリスト教宣教師ジョン・バチェラーの教導を受け、クリスチャンとして女学校を卒業した知里は、当時のアイヌ女性としては稀有な存在であり、心臓病を押して翻訳執筆した『アイヌの神謡』1巻の校正を終えた翌日に19歳で夭逝した。ジプシーのコミュニティーで流浪の生活をし、ジプシーの秘密を漏らした咎でコミュニティーを追放されたパプーシャとは、2人の生い立ちは大きく異なる。だが、2人が意識的にも無意識であっても背負わされたマイノリティーに生きる人間としてのアイデンティティと文化の継承は、マジョリティの中にいる人々に切なくも哀しみをもって迫ってくる。

ジプシーは、現在も世界各地に広がり国家を唱えず自由と音楽と独自の文化のなかでの暮らしを求めて旅をする。欧州はじめ関わる地域ではジプシーの存在を迷惑がる動きも存在する。一方で、世界各地の紛争地域では、殺りくの暴力を逃れた多くの難民、自分の国を語れない人々がつくり出されつづけている。クシシュトフ・クラウゼ監督の遺作となったパプーシャとイェジ・フィツォフスキの物語は、アイデンティティと文化を尊敬し合って生きるという現代の国際的な問題にも静かだが力強い問い掛けを発している。

監督:ヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ 2013年/ポーランド/ポーランド語、ロマニ語/131分/原題:Papusza 配給:ムヴィオラ 2015年4月4日(土)より岩波ホールほか全国順次公開。
公式サイト:http://www.moviola.jp/papusza/
Facebook:https://www.facebook.com/moviolaeiga

2013年第48回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭スペシャル・メンション受賞。第58回バリャドリッド国際映画祭監督賞・男優賞(Zbigniew Walerys)・青年審査員賞受賞。第15回グディニャ・ポーランド国際映画祭メイキャップ賞受賞。第54回テサロニキ国際映画祭観客賞。2014年第32回イスタンブール国際映画祭審査員特別賞、第16回ポーランド映画賞楽曲賞・撮影賞・美術賞受賞作品。