近藤愛哉氏
小川伴子氏
川嶋範子氏

 

「CS教師セミナー2021」(いのちのことば社CS成長センター主催)が、10月23日にオンラインで開催され、およそ350人が参加した。テーマは「コロナと教会学校 これまで、これから」。保守バプ・盛岡聖書バプテスト教会牧師で、3・11いわて教会ネットワーク代表の近藤愛哉(よしや)氏の講演、インマヌエル深川キリスト教会牧師の川嶋範子氏とインマヌエル別府キリスト教会牧師の小川伴子氏による実践報告「オンラインCSの実際―この1年の具体的な取り組み・アイデア」が行われた。近藤氏の講演とそのあとに行われた質疑の一部を採録する。

講演題は「コロナ時代の教会学校 〜パンと魚を惜しまずに〜」。近藤氏はまず、「コロナの時代に教会/教会学校が問われていること」として、・子ども/人を誘えない、・そもそも教会に集まれない、・アイデア/技術がない、・子どもがいない、・若者がいない、を挙げ、「無いこと/無いもの」ばかりの状況で、教会は何を祈っているのか、と問う。「コロナが収束するように、早く元どおりの生活になるようにでは、ひたすら耐え忍ぶことが求められ、それも確かに現実ではあるが、それが本当に祈るべきことなのだろうか」として、「5千人の給食の奇跡」を引用する。

この奇跡は唯一、四福音書全てに記されている。ここで弟子たちは、現在の私たち同様、「無い無い尽くし」に直面している。マルコの6章によれば、「ここは人里離れたところ」「もう遅い時刻」。そもそも「寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」(31節)と言われてやって来たところなのに、人々がついて来てしまい、イエス様も彼らに教え始めてしまう。

イエス様と人々は至福の時間を過ごしているが、弟子たちはその中に入れないでいる。弟子たちがイエスに言ったのは、人々を解散させて「自分たちで食べるものを買うこと」。弟子たちの本音は、「これは自己責任」「先生がこんなに遅くまで話をするから」「この問題に関わりたくない」。それに対するイエス様の返答はただ一言、「あなたがたが、あの人たちに食べるものをあげなさい」。弟子たちの反応は「私たちがですか」。

当然5千人の群衆を目の前にして、弟子たちは計算したであろうし、それは現在私たちが教会で、予算作成など、様々な計算をするのも同様。しかし、この出来事の直前に彼らは何を経験していたのか。二人ずつ遣わされた弟子たちは、病を癒やし、悪霊を追い出すという、イエス様が行っていたわざを自分たちが行い、それを帰って来てイエス様に報告している。にもかかわらず、その直後にここでは「無理です」「足りません」。想定外の事態に、あの記憶と感謝が飲み込まれてしまう。私たちも、コロナの事態の中で飲み込まれてしまう記憶と感謝があることは、理解できないことはない。


ヨハネの福音書は、イエス様がピリポを試すために「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」(6章5節)と言ったと記している。

信仰者は絶えず試される。荒野のイスラエルの民は、奇跡的に水が、肉が、マナが与えられてもなお、新たな難題に直面するたびにつぶやいており、その姿はそのまま私たちの信仰に問いかける。「主に信頼しましょう」と毎週聖書から聞かされているのに、不測の事態に直面すると怖じ気づいて「無理です」「ダメです」となってしまう。コロナの時代にあって、何をイエス様は私たちに試されているのか。

イエス様の質問は「パンはいくつありますか」。弟子たちの答えは「五つのパンと二匹の魚しかありません」。ヨハネは「大麦のパン五つと、魚二匹」と記すが、大麦は小麦に比べて粗末な食事であり、ここでヨハネが使ったギリシャ語の「魚」は他の福音書とは違う語が使われ、「小魚」とも訳される言葉。答えたアンデレはさらに「それが何になるでしょう」と言い、差し出した少年とは対象的な損得勘定を繰り返す大人が描かれるが、イエス様はその価値のないパンと足りるはずのない魚を取って、「天を見上げて神をほめたたえ」「感謝の祈りをささげ」る。イエス様の目は「あるもの」に向けられ、弟子たちの目は「ないもの」に向けられている。それは、感謝をするよりも「足りない」と不平を言い、他の人と比較する私たちの姿ではないか。

では私たちの「パンと魚」はどこにあるのか。近藤氏は自らが体験した東日本大震災での働きを語る。岩手県内56の教会は、半数が盛岡市にあり、クリスチャンの数も少ないが、それがすでに与えられていたもの。

3・11いわて教会ネットワークの働きは、内陸部4教会の5人で始めたものだが、教会というつながりの中で、県内外からのボランティアが与えられ、100人を超える中・長期の働き人たちが移住してきた。キリスト教会からのボランティアは、なかなか地元の人に受け入れられなかったが、最初から友好的だった年配の男性が一人だけおり、そのわけを聞くと「60年前に一人の宣教師に英語を教えてもらい、よくしてもらった。

そのことを思い出して、恩返しをしたいと思った」。60年前の宣教師はおそらく、教会ができない、救われても人がいなくなると、失意のうちに岩手を去ったのではないか。しかしその働きが残されていて、60年の時を経て、今神様が用いてくださった。

 

コロナ禍だからこそ再確認
教会の役割といのちの視点

岩手県では教会の閉鎖が続いていたが、今主の教会が次々と生み出されている。そしてこのコロナの時代に見させられていることがある。

一つは、教会(学校)の役割の再確認。CSは子どもたちのための働きであるとともに、家族のための働き。なぜなら信仰継承の取り組みの柱は家族であるから。親がどれだけ子どもの信仰のために取り組んでいるか。CSの生徒に会うことができなくても、自分の子とは会うことができる。CSはその家族のため、親のためにできることがあるのではないか。

また一つは、場所と時間にとらわれない取り組み。一人の青年は、日曜の教会学校にこだわらずに、自分の生徒である高校生と週3回聖書を読むようになった。

また、クリスチャンならではの「いのち」の視点。コロナで世界中が「被災地」になり、皆が「死が近づく」経験をしている今、クリスチャンにこそ語れることがある。
そして、変わり続ける時代・世界に向けられる、変わることのない主の「憐れみ」。マルコ6章34節の「イエスは彼らを深くあわれみ」とは、「内臓が震える」というような強い言葉。その眼差しを知る者として、イエス様とともにどんな時代でも変わらない眼差しを向けたい。

最後に近藤氏は、「あなたは何を祈るのか」「あなたが持っているものは何か」と問いかけて講演を結んだ。

(【質疑応答】は、2021年11月14日号に掲載)