「福音派の中には、神学的な営みとキリスト者の霊的・人格的な成熟とを無関係に考える傾向があるのではないか?」「正しい神学的な営みは、我々を人格的にも成熟させるのではないか?」|そのような問題意識に基づき、日本福音主義神学会第16回全国研究会議が11月15日から17日まで、「キリスト者の成熟 教会・社会・文化」を主題にオンラインで開催され約250人が参加した。人格の成熟というテーマを「神と私」の個人的な関係や「霊的成熟」だけでなく、理念と実際を神学的に問い直そうと、教会人としての成熟(教会論)、社会に生きる良い市民になるという意味での成熟(キリスト教倫理)、文化を創造する感性における成熟(宣教論)から問うた。(次号で続報)

 

福音の包括性・共同体性に注目

「教会とキリスト者の成熟」について石﨑伸二氏(神戸ルーテル神学校校長)と岩上敬人氏(日本福音同盟総主事)が講演。

石﨑氏はルター神学のサクラメンタルな理解を中心に教会人の成熟と召しを検討、恵みの手段としてのみことばと聖礼典との結びつきで捉えた。また、教会人としての責任や牧会のあり方、苦しみが与えるものや苦しみを乗り越える成熟などを考察。義認と善い業はひとつであり成熟と関連しているとし、それを与える神の恵みに留まり続け悔い改めることの大切さを強調した。


岩上氏はパウロ書簡を中心に考察。罪の世界から十字架によって贖われて生きる成熟とは、キリストにあって成し遂げられた救いの完成に向かって生きることと位置づけた。それは個人的なだけでなく教会共同体の生き方だとし、教会全体で成熟と完成に向かって生きるとき、共同体において愛が働きキリストのからだが建設されていくとして、コロナ禍でキリストの苦難の中に置かれている教会において今、まさにキリスト者、教会人としての成熟が求められていると述べた。

「社会におけるキリスト者の成熟」について柳沢美登里氏(「声なき者の友」の輪)と中島真実氏(兄弟団・一宮教会牧師)が講演。

柳沢氏は万物刷新時の新しく完成された個人と共同体の姿を基に、国際協力の働きで示されてきた「神の国」の包括性の観点から考察。現在の社会を「すべての人が神のかたちとして貴ばれ、弱者を擁護する正義と公正が行われ、人と被造物が多様さと豊かさを表すよう」本来の包括的な姿と関係に回復されるべき世界と捉え、教会や組織も属する共同体のあり方と切り離せないと指摘。キリスト者の成熟は「誰を真の王とするのか」を体現する組織や社会の成熟の程度との相互作用によると語った。


中島氏は社会生活における成熟を考察するにあたり「キリスト者の社会的責任」を検討し、H・リチャード・ニーバーの概念分析を鍵に「社会に対する神についての責任」ではなく「神に対する社会の責任」の方向性を強調。J・H・ヨーダーの神学に注目し、「イエスが主」という信仰告白の確信に徹して社会生活のあるべき姿を求めていく思想の可能性を探った。その点、ローザンヌ誓約が福音派の社会的責任を明確にしたことを画期的と評価。ケープタウン決意表明が社会的関与を「愛」の概念で表現したことを高く評価した。

「文化を創り出すキリスト者の成熟」について南野浩則氏(福音聖書神学校教務)と吉川直美氏(聖契神学校教師)が講演。

南野氏は文化を社会的な視点から捉え、キリスト者の成熟は異質との出会いに関わると定義。「文化は互いに異なる価値観・倫理のぶつかり合いの中で創造され、自己理解の変化さえも生み出す」と指摘した。社会・文化において福音が実現するため、互いに異質である宣教者と被宣教者との対話と相互理解が求められると、唯一の正統性を主張するヨーロッパ型偏重に問題提起。異質な文化を切り捨てない成熟は教会の社会的信頼を生み、その信頼は文化的な貢献をもたらすと述べた。


吉川氏はキリスト者の成熟を「神のかたちの回復と被造物の贖いに、全存在をもって創造的に参与していくこと」と定義。戦後日本の福音派は「世俗の文化」に積極的な価値を見出してこなかったなかで、21世紀に入り、ケープタウン決意表明、東日本大震災、『福音の再発見』の刊行などにより、二元論的な世界観や分離主義が見直され、包括的な宣教理解が進んできたと指摘。そこには文化・芸術の完成も含まれるべきだとして、キリスト教世界観に立った批判的・創造的な取り組みに期待を示した。