鳥井新平 日本基督教団京都教区部落解放センター主事代行
全国キリスト教学校人権教育セミナー運営委員

 

1922年3月3日に水平社宣言は出ました。部落の人々自らが差別の厳しさからの解放を訴えた叫びのような文章です。改めて、この文章を声に出して読んでみます(全文は水平社博物博物館http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/sengen.html などで読める)。

100年の時を超えて、今ここに立ち上がってくるみずみずしい怒りに満ちた心を感じます。人間の尊厳を取りもどそうとするみなぎる決意や仲間たちとの連帯の呼びかけが響き続けています。社会的な「秩序」をひっくり返す根源的な問題提起があります。

マリアの賛歌(ルカ1:46~55)のようです。そして、水平社宣言にはこれまで、多くの人を鼓舞し、なぐさめ、解放してきた歴史があります。ポパイのほうれん草のようです。

この宣言文を書いた人は西光万吉(さいこうまんきち)という仏教のお坊さんですが、文章のいたるところに聖書やキリスト教の影響がうかがえます。

「殉教者」「荊冠(けいかん)」「人の世に熱」「人間に光あれ」などの言葉から、イエスの殉教や、出エジプトの物語、あるいは創世記の出来事がにじみでききています。彼は水平社宣言の中で、「人間を冒瀆(ぼうとく)してはならぬ」、人間は尊敬すべきものだという思想を表現しています。その根底に流れる考え方はロシアの作家ゴーリキーの『どん底』を下敷きにしていると、読んだことがあります。

文中にある「人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ」という表現に反応して、人間は神にはなれない、これは偶像礼拝につながる、と反発するクリスチャンの方もおられますが、私の解釈はちがいます。ここは近代文明の発達による生活や社会の変化を言っているのだと思います。

もう一つの解釈は天皇制です。まさに、明治から強化された富国強兵の国策の中で、天皇が現人神(あらひとがみ)と神格化されていることを言っているともとれます。水平社宣言にも限界性がないわけではありません。

(鳥井さんはこの後、宣言に見える「男尊女卑」「家父長制」を指摘した上で、「差別語を投げ返す逆転の発想」について語ります。2022年3月20日号掲載記事)