寄留者や孤児の権利を侵してはならない

木原 活信 同志社大学社会学部教授

「あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19章9節~10節)
「寄留者や孤児の権利を侵してはならない。(中略)あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと…覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。」(申命記24章17節~22節)

聖書に原点をもつ古代の「落穂ひろい」は、今日の社会福祉の最古のルーツであると言ってもいい。それはミレーの絵画にもあるようにフランス農村社会では近代社会まで馴染み深い風景であった。「落穂ひろい」というと、「残り物」などとネガティブに理解されることがあるが、それは違う。「落穂」は、意図的に貧しい人のために落とすものではなく、偶然に落ちてしまったものである。そしてそれを立ち戻って拾ってはならないというのが律法の趣旨である。収穫物を忘れてしまった場合でも取りに戻ってはならないとされた。その落穂は、貧しいやもめ、寄留者、孤児など貧しい人たちが、神からの贈り物として感謝して頂くためである。
「寄留者や孤児の権利を侵してはならない」と申命記には明記されているように、ここには差別関係としての施す者と施される者という上下関係はなく、差別意識のスティグマも生じない。もし落穂ひろいではなく、豊かな人が貧しい人に「施す」というのであれば、「私のものを恵んでやる」というような優越感が生まれたはずである。そして施される者は、施す側に対して肩身の狭い思いをしたであろう。しかしそうではなく、聖書によると、律法で落としてしまった穂を拾うことが禁じられているということは、もはやそれは「私の手から離れた」「私の権利・所有ではない」ということになる。つまり、貧しい人はそれを「金持ちに施して恵んでもらう」という意識ではなく、あくまで「権利」として拾うことができるのである。もちろん、落穂を自分で拾うこと(労働)はしなければならないが。
神は、なぜ、そんな「奇妙な」法律をつくったのか。それは聖書に明記されているように、豊かになり、収穫をしている立場(イスラエルの民)になっても、エジプトで奴隷であった立場、つまり貧しく、苦役したことが原点にあったことを忘れてはならないためであるとされている。このことは、本紙のテーマ「共感共苦」と連動しているのである。つまり、自分自身の苦しみの原点、かつて自らもそうであったことを起点として、仮に今は恵まれた立場であっても、苦しんいる者、貧しい者を自分のかつての立場と重ねて(共感共苦して)常に行動すべきだというのである。

排除される在日外国人や難民 教会は?

現代の日本ではどうであろうか。特に寄留者、すなわち在留外国人についてどのように対応しているだろうか、、、、、、

2022年11月13日号掲載記事)