【特集】「平和を造る人は幸い」 「有事/敵」の想定から戦争が始まる
寄稿・石田学(日本ナザレン教団無任所牧師)
赦しと和解が必要
ここ数年の世界情勢の変化は、日本社会にも大きな転換をもたらしています。日本周辺での「有事」に備えるためとして、政府は防衛力の強化、敵基地への攻撃能力の保有、軍事同盟の強化を進め、国民の間にも軍備拡張への支持が広がりつつあります。戦争への恐れがそうさせるのです。
しかし、戦争は「有事」から始まるのではありません。わたしたちの日常から、意識の在り方から始まります。有事を想定することは、敵を想定することです。敵を想定することは、敵と味方、隣人とそうではない国という区別を常識とすることです。この常識から戦争は始まります。こうした現実の中、日本のキリスト者はどのように平和を造るのでしょうか。
聖書は神が平和の主であると教えています。争いと対立の世界にあっては、赦しと和解なしに平和はありません。しかし、赦しと和解はキリスト者にとって決して当然でも安易でもありません。
悲嘆と報復の詩編
わたしは数年前、アジア太平洋地域のナザレン教会神学教育会議に出席し、朝の祈りの時を担当しました。朗読した聖書は、悲嘆と報復の詩編として知られる137編8、9節。
娘バビロンよ、破壊者よ、
幸いな者
お前が私たちにした仕打ちを
お前に仕返しする者は。
幸いな者
お前の幼子を捕らえて岩に叩きつける者は。(聖書協会共同訳)
なぜこれほどの強烈な悲嘆と報復の祈りが聖書に収められているのか。なぜユダの滅亡から何百年経っても、神殿で、シナゴグで、そして教会で、報復の詩編が歌われ朗読され続けるのか。その意味を二十世紀前半に日本がアジアでおこなった行為と関連付けて語りました。
振るわれた暴力、虐殺、悲嘆は個人の中で、民族の中で、共同体の中で、国家規模で、決して忘れられることなく記憶され、物語られ、語り継がれてゆきます。これは聖書の民はもちろん、全人類に共通することです。苛酷な体験の記憶は時代を超えて人々に語り継がれ、嘆きと怒りを追体験させます。
なぜ詩編は時代を超えて悲嘆と報復を歌うのでしょうか。報復の詩編の目的は加害者を憎み続け、自分たちの手による報復を渇望し続けるためではありません。民の歴史と体験を決して忘れず失わないためです。
アジアの各地に日本の残虐行為、日本からの独立、戦勝を記念する施設が建てられているのも、同じ理由からです。特に聖書の民の歴史は神の歴史でもあります。だから報復の詩編は、自分たちが報復することを願うのではなく、神の手に報復を委ね、神への賛美が詩編全体の結論となっています。
嘆きと苦しみは想起され、引き継がれてゆきます。赦す側は、こうした痛みと嘆きを耐え忍びつつ赦し続けるのです。そうであれば、赦すことは決して安易なことではありません。その事実を、加害者の側は忘れるべきではありません。
だから、わたしはアジア太平洋地域での会議ではかならず、かつての日本による侵略と暴力に対する謝罪と赦しを請うことから発言を始めてきました。この朝の祈りの時、わたしはこうした思いを語り、出席していた兄弟姉妹と分かち合いました。
§ §
この奨励のあと、しばらく沈黙が続きました。何か不快な思いをさせたかとわたしが不安を感じ始めたとき、出席者たちがぽつりぽつりと順に語り始めたのは、、、、、、、
(2023年08月13日号04面掲載記事)