ケアと繋がりが少ない牧師の妻たち 超教派女性ミニストリーワーカー1泊リトリート
私は「ふさわしい」のだろうか?
「女性ミニストリーワーカーリトリート」が7月3、4日、千葉・市川市の山崎製パン株式会社総合クリエイションセンターで開かれた。首都圏宣教セミナーと関西牧会塾の共催企画。全国から11の団体、30代から50代の女性たち15人が集った。多くは牧師の妻、いわゆる「牧師夫人」と呼ばれている女性たちだ。
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発起人は大嶋重徳・裕香牧師夫妻(鳩ヶ谷福音自由教会)と、豊田信行・かな牧師夫妻(ニューライフキリスト教会)の4人で、昨年11月に開かれたワンデイ(1日)リトリートから発展したもの。
「日帰りでは足りなかった、もっと話したかった、もっと話を聞きたかった、という声が多く、今回は1泊にしました。しかし、牧師夫人(妻)である彼女たちがここに参加するのは、簡単なことではありません。そんな時間やお金を自分のために使っていいのか、という思いがどうしてもあるのです」と発起人の4人は語る。
立場が明確な牧師は、学びや交わりの機会が多くある。しかし牧師の妻は、交わりも少なく、孤立している場合も多いという。
大嶋夫妻は、長年超教派の学生伝道団体KGKの主事だった時代、地方の牧師夫妻の声を聞く機会が多く、牧師の妻たちがケアされ、繋(つな)がりをもつ必要性を痛感していたという。
「超教派ゆえにしがらみもなく、知らない人同士だからこそ話せることもあると思う。ここでは、家族や教会での役割から離れて、リフレッシュ、リラックスしてほしい」との語りかけから、リトリートは始まった。
信行氏は他者と自分の境目「境界線」の重要性について語った。
「いわゆる『牧師夫人』は役割や立場が曖昧な場合が多い。人は『私は誰なのか?』という問いかけに明確な答えをもっていないと『私』という境界線が曖昧となり、『自分らしさ』を愛し、受け入れることが難しくなる。自分を愛せないことに深く関係しているのが罪責感と羞恥心。『羞恥心』は『あなたはふさわしくない、神と人から愛される資格がない』と告げる。『羞恥心』の言いなりになって、無理に頑張るか、諦めるかではなく、イエス・キリストの十字架の死はすべての人を罪と恥の苦しみから解放するためのものであり、神がありのままの『私」を愛してくださっていることを覚えたい」
かな氏は、夫や先輩など、人のネガティブな感情に自分の心も影響され、激しく落ち込んでしまった経験を語った。
「人との感情の境界線が曖昧になって、パニックになってしまったのです。でも自分の感情は自分で所有し自律することが大事です。相手の感情の責任を負わなくていいのです。自分が何に傷つき、恐れ、怒っているのかに気づくと、自分の感情のパターンがわかり、パターンを変える練習ができる。ありのままの自分がわかり、その自分を受け入れることができると、心が軽くなり、自分らしく神様のために生きたいと、エネルギーがわいてきます」
裕香氏は、自分に新しい名前をつけてみるというセミナーを紹介。参加者は自分らしさやなりたい自分を思い浮かべながら、神様にもう一度いただくような気持ちで付けてみる、というワークにも挑戦した。
「イエス様が自分の名前を呼んでくださることを覚えたいのです。○○夫人ではなく、私自身の名前を呼び、悲しみや悩みから引き上げてくださる神様の呼びかけに気づき、応答するものでありたい」
プログラムは、分かち合いの時間が多く、一方で「お昼寝」という名の、決して「お祈り」や「ディボーション」ではない、一人ゆっくり思いめぐらす贅沢な時間も。もちろん、「お昼寝」をしてもいい。
参加者からは「これまで、外の集まりにはほとんど参加せず、一人悶々と考えて、解決できずにいた思い、言葉にならぬ思いを、豊田先生が言語化してくださって、悩みの本質に気づけた」「牧師夫人となって間もないことを言い訳に、自分を覆い隠していた。本当は自分が認められたかったのだと気づいた。気負わず、自分らしくありたい」「教会や家族から離れて、自分の内面に向き合い、神との関係に集中できた」「普段自分の内面にまで心配ることができず、ごまかしてやりすごしていたことに気づいた。これから『私らしい私』を探していきたい」「私はここにふさわしくないのでは? という思いが、ここにいていいのだ、という思いに変わった」などという声が聞かれた。
*本紙特集「フォーカス・オン」では、いわゆる「牧師夫人」について、当事者の声に耳を傾けつつ、真に神様が願われている教会のあり方について考えていきたいと願っています。紙面記事下アンケートフォーム、または下記の二次元コード(QR)から、牧師の妻、当事者へのアンケートにご協力ください(2023年9月1日締切)。