「2024年日本長老教会平和学習会」(同社会委員会主催)が4月29日、オンラインで開かれた。金やすみ氏(同盟基督・塩尻聖書教会担任牧師)が「ジョン・M・L・ヤングと父ルーサー・L・ヤング 戦中と戦後の在日宣教に見る『神のことば』と宣教」と題して講演した。今回は、ルーサーの息子、ジョンの信仰について。以下は、講演内容の要約。

日本の教会の罪を痛烈批判

─ルーサーが1927年から13年間、戦前・戦中の日本で在日朝鮮人宣教に従事したのに対し、ジョンは1948年から24年間、戦後の日本宣教に従事。戦後福音派教会の一つの源流となり、「絶対的聖書主義」の立場から、日本の教会の失敗と堕落の歴史を総括した。

この「絶対聖書主義」の視点から、ジョンは戦時下の教会が天皇制国体に迎合し神社参拝を受け入れた原因を分析し、批判するようになる。戦時下の教会が行った拝礼行為を偶像崇拝だと批判。出エジプト記20章の十戒の第二戒とダニエル書3章から、心と行為のどちらか一つでも含んだ拝礼行為は偶像崇拝だとし、戦時下の日本における拝礼行為が、たとえ心の伴わない形式的なものであったとしても偶像崇拝行為に変わりはないと批判。カルヴァンに見られる教会と国家論に基づき、二つの帝国の衝突という視点から、教会はこの世のものと神のものとを峻別(しゅんべつ)できず、「神のみに属するものをカイザルに献上した」ことに問題の本質があると語る。

その背景には、神のことばを権威あるものと認めない自由主義神学の影響があるとジョンは考える。聖書がもはや「信仰と実践における唯一」絶対の基準でなくなってしまい、教会は神に属するもの、この世に属するものとを峻別するための確固たる神学を失ってしまった。その結果、教会は時代に流され、「キリスト教信仰」と「国家神道」を融合させる道を選択してしまった。自由主義神学が、天皇制がはらむ偶像性まで見抜けなくしたため、教会が偶像崇拝の罪を犯してしまったと言う。このように、日本の教会が天皇制国家にあらがえなかった根本原因を自由主義神学に見出している点はとても興味深い。

戦後、依然として戦時下の罪を悔い改めない日本基督教団などに対する宣教師らの対応は分かれたが、ジョンは過去との決別を当事者に要求する立場を取り、、、、、、

2024年06月16日号 07面掲載記事)