対談 沖縄で語る賛美の力、本質 神谷武宏×中山信児

 世界で最も危険と言われる沖縄普天間飛行場(基地)。このすぐ近くにある普天間バプテスト教会(沖縄バプテスト連盟)で、「平和と賛美」と題した対談が9月12日に行われた。対談したのは普天間バプテスト教会牧師の神谷武宏氏と菅生キリスト教会(日本福音キリスト教会連合)牧師の中山信児氏。神谷氏は普天間基地のゲート前で毎週ゴスペルを歌う「普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会」を指導し、中山氏は福音讃美歌協会理事長である。内容は、「賛美」の枠を越えて、沖縄の歴史、現状へと及び、さらには「賛美」の持つ力、その本質へと深まった。(対談コーディネート、レポート=重元清・石川福音教会〔日本福音キリスト教会連合〕牧師) 

基地は〝命〟に関わる問題

写真=平和学習で大学生たちと

 この日神谷氏は、関東から平和学習に来ていた約20人の大学生たちに講演。スライドを用いて、普天間バプテスト教会付属の緑ヶ丘保育園の屋根に落ちた、米軍ヘリからの落下物と、それにともなう抗議運動について説明し、現在の沖縄とヤマト(本土)の力関係、さらにはアメリカとの力関係そのものが「命」の軽視にまでつながっている事実を、学生たちに伝えた。 この平和学習に参加してから対談はスタートした。

中山 今日の平和学習に参加して、平和の問題、沖縄の問題を学ぼうとしても、現場の声を聞く機会はなかなかなくて、貴重なお話をうかがったなと思います。そういう中で、神谷先生は「ゴスペルを歌う会」を続けてこられましたね。

神谷 保育園にヘリからの落下物(米軍はヘリからの落下は認めていない)がありましたが、これは子どもやその親御さんたちにとっては、命の問題なんです。2012年に「ゴスペルを歌う会」を立ち上げましたが、その活動をしている中での2017年12月に起きた落下物事故でした。それまで、沖縄の問題、基地の問題は、沖縄に住む人間として当事者ではありましたが、直接的な当事者でない部分が、私も含めて親御さんたちにもあったと思います。それがこの事故によって直接的な当事者になった。私が声を上げるというよりも、お母さんがたが声を上げている。自分の子どもの命にかかわることですから、声を上げずにいられない。私も聖書に問う中で、イエス様ご自身が「わたしはいのちです」と言っていることから、牧師として重なるし、「ゴスペルを歌う会」もそこで重なります。この働きは、キリスト者の名の下でやろうとしている。他の団体に加わって個人として関わるのでなく、教会のわざにしようと考えました。今は、教会外の方も、教派を超えて加わってくれています。

中山 昨年『ゴスペルのぬるしをあげて』という「ゴスペルを歌う会」の活動の記録集がいのちのことば社から出版されました。この活動は普天間だけでなく、全国各地に広がっていると聞いています。

神谷 首相官邸前、東京御茶ノ水、横浜戸塚、福岡天神、岡山和気、大阪十三、大阪福島、京都、兵庫洲本、兵庫摂津本山でも。本の題名にある「ぬるし」は、沖縄の言葉で「のろし(狼煙)」ですが、ヤマトの言葉で意味するような戦闘の合図ではありません。沖縄では伝達の手段で、船での旅立ち、中国やヤマトから使節が到着すれば、その合図。人々はそこに魂が宿っていると考えていました。「ゴスペルを歌う会」を普天間で始めたら、それに呼応してくれる人たちが現れて各地に広がっていったので、このタイトルを付けたのです。

平和学習で大学生たちと

中山 神谷先生の働きは、基地の前でゴスペルを歌うとか、そのタイトルだけ見れば、尖った感じというか、攻撃的な印象を持っていました。でも、平和学習での話を聞いていると、そうではない。「ぬるし」も戦いの合図ではない。活動も激することがないようにと言っている。それらに、命、みことばの問題として取り組んでいることが分かって、感銘を受けました。

 沖縄の問題を考えるとき、沖縄の人と本土の人と何が違うのかと言えば、やはり当事者性でしょうか。本土の人間は、日米安保をどれだけ自分の問題と考えているか。それによって守られていることはわかっていても、日米安保によって生じているひずみに気付いているか。ひずみを受けている当事者である先生方を今日は目の当たりにしました。

神谷 この問題はね、日本人一人ひとりにとって、自分の問題になっていくことがすごく大事です。どうやったらそうしていけるのかが問われている。日米安保の弊害がどこで起きているのか、東京ではそれを知らない、感じない人の方が多いでしょう。それが沖縄で起きている弊害をあなたはどう受け止めますか。もし日米安保によって平和がもたらされているならば、その犠牲を沖縄が引き受けている上での平和であることをあなたは受け入れられるのか、という問いになりますね。

中山 先ほども「日本を守ると言いながら、なぜ沖縄の子どもを守るということにならないのか」というお母さん方の言葉を聴きましたが、これはやはり日本全体の問題ですよね。海の向こうで見えないから考えてこなかった沖縄への負い目というか、すごく考えさせられました。

神谷 沖縄の問題は、差別の問題です。その問題を歴史的に見ていく必要があります。1609年に薩摩が侵攻して、その時から税金は取られ、琉球は貧しくなった。1879年には琉球「処分」です。 ヤマト(日本)から軍隊、警察官約600人が来て琉球を制圧し、琉球を沖縄県にしました。無理やり侵略された場所で、その後も沖縄は差別の中に置かれた。琉球から沖縄になって明治政府は、まず沖縄の言葉を奪った。沖縄の県知事はヤマトの人間で、皇民化教育を徹底し、沖縄を日本化していった。在来の琉球馬は、農耕用に適した馬でしたが、戦争に向かないということで淘汰され、日本の軍馬に変えられていった、ということもあります。沖縄は常にヤマトに利用されて、必要がなくなれば切り捨てられました。
敗戦後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約で日本は主権を回復しますが、沖縄は米国の占領統治下に置かれました。沖縄はヤマトから切り離されたというか、沖縄を売って日本は主権を獲得したんです。4月28日は屈辱の日として毎年、沖縄の新聞は取り上げています。そういう歴史をどれだけの人が知っているでしょうか。

中山 現在、広大な基地が広がる普天間も、かつては栄えた地域だったと聞いています。

神谷 普天間のある宜野湾村(現在は市)には、琉球松の並木道がありました。普天満宮(琉球古神道)という神社があって、そこから約15キロ離れた首里城まで続く並木道でした。17世紀に首里の王様のために植えられたと言われています。特に宜野湾の5・8キロの琉球松はきれいで、地元の人はこの松を“じのーんなんまち”(宜野湾並木)と言っていました。1932(昭和7)年には日本の天然記念物になっている。あの並木道を中心に宜野湾は豊かな街づくりをしていた。学校や役所や病院や、いろいろな施設があった。そこに1945年4月、沖縄島に上陸した米軍は滑走路建設を始めて行きます。

中山 戦争中そこに住んでいた人たちはあちこちに逃れていて、戦争が終わった後は収容されていて、そこにはいなかった。帰って来たときに、滑走路中心の街になっていた。元々は彼らの土地だった。

神谷 教会員で、98歳で先日亡くなった方がいらっしゃいます。宜野湾の方で、自分たちの土地を米軍が滑走路にしていくのを見た、と言っていました。そのとき自分たちの家の墓がつぶされた。沖縄の墓は、ヤマトとは違って土には埋めないので、亀甲墓という建物のようになっているんです。土を掘らずに平地に遺体を置くので、ブルドーザーでつぶされたら、中から遺体が出てきたのです。納めたばかりの遺体の衣服が車輪に引っかかって、引きずられていくのを見た、と言っていました。苦しかったと思います。みんなで、あの人はどこそこの誰だ、と言って泣いた、と語っていた。そうやって普天間基地は作られたんです。何もない所に基地を作ったのではありません。

基地が夢を奪っている

中山 昨日、米軍の大型輸送ヘリの窓が落下した普天間第二小学校の前を通りましたが、あまりの基地との近さに衝撃を受けました。本当にフェンスのすぐそばですね。

神谷 宜野湾は市の4分の1が米軍基地に接収され、土地がない。人口が年々増加して行く中で、なんとか土地を探して、造成して。あの小学校の場所も、もともとちょっとした小高い山で、森でした。私はここで生まれ育っている。フェンスができたのが63年で(それまでフェンスはなかった)、小学校ができたのが69年です。

中山 その頃、基地は、今ほど活発に利用されていなかった。

神谷 こういう状況ではないですね。今、沖縄の中部・北谷(ちゃたん)町にハンビータウン、美浜アメリカンビレッジとして開発された地域も、かつては基地(ハンビー飛行場)があった場所です。そこが返還されて豊かな街になっている。大型のショッピングセンターや映画館、ボーリング場などの娯楽施設、総合運動公園もできました。
時々、基地のせいで沖縄は潤っている、という人がいますが、とんでもない話です。基地のあることが、沖縄の雇用を停滞させている。いまだに失業率は高く、収入も低い。基地が雇用を奪っていると言えます。81年に返還された基地は、今の普天間基地の半分くらい、そこで働いていたのは年間100人と言われています。普天間基地では年間200人が働いていると言われますが、延べ人数です。実際の固定人数は100人ほど。東京ドーム103個の場所に、現在はその程度の雇用しかないんです。これが返還されたらどうなるか、どんなことができるか、どんな街が生まれるのか、夢が広がります。うれしくなります。でも、その夢さえ奪っているのが、基地の現状なんです。(つづく)