講演Ⅳ「ラディカル・リベラリズム神学」原田氏(上) 御言葉により改革され続ける教会と信仰 第23回断食祈祷聖会2021⑥

「断食祈祷聖会2021」(同実行委員会主催)が1月11、12日に開催。今年はコロナ禍のためオンラインで開かれ、「開拓伝道」、「児童虐待と家庭形成」、「海外宣教」、「ラディカル・リベラリズム」の四つの講演が行われた。2日目の講演Ⅳでは、原田彰久氏(日基教団・東京聖書学校吉川教会副牧師)が「ラディカル・リベラリズム神学」をテーマに講演した。【中田 朗】
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最初に、「リベラリズム」とは何かについて説明した。「『リベラリズム』とは『自由主義』と訳され、一般的に良い意味、肯定的な意味で語られる。一方、キリスト教の歴史では、『神の言葉である聖書からの自由』、あるいは『聖書解釈の自由』という意味があり、必ずしも良いとは言えない」
自由主義神学の特徴は、「聖書を人間の経験の範囲内で読むこと」だという。「マルコ6章45~52節には『湖の上を歩くイエス』の出来事が描かれている。だが、『湖の上を歩く』は非常識で信じられない、間違っている、というのが自由主義神学の考えだ」
実際に何が起きているのか、ある新約聖書学の教授による「素直に聖書を読み取る大切さ」と題した講演を例に、三つの点に注目した。
第一に、「素直に読む」ということ。「『素直に』は『書いてあるとおりに』ではない。『文献学の基本に立ち返って読むこと』が『素直に』の意味だ。文献学は学問だが、『必ずそうである。間違いない』と言った途端に学問でなくなる。学問的とは、『人間が納得できる、分かる範囲で読む』と言っているに過ぎない」

原田彰久氏

第二に、「『教会の信仰』という色めがねをかけないで見る」ということ。「『教会の信仰』とは、端的に言えば教会が歴史の中で告白してきた信仰で、代表的なのが『ニケア信条』、『使徒信条』だ。だが、『聖書のみ』をうたうプロテスタント教会、福音主義教会の中には、聖書か使徒信条かという誤った二者択一がある。実のところ、ルターやカルヴァンといった宗教改革者たちは、教会が歴史の中で伝えてきた伝統、『教会の信仰』を無視しないどころか大切にした。それだけに、『教会の信仰』が『色めがね』であるということは、教会の歴史を軽視した、根っこのない信仰と言っているに等しい」
第三に、「『疑問を抱くな』と牧師から言われ、そう思って読んでいるだけ」ということ。「『教会の信仰』は、歴史の中で様々な疑問や批判にさらされてきた。奇跡など、私たちがぶつかる疑問は、歴史の中で誰もが直面してきたものだ。聖書は私たちに挑戦してくる。『人は水の上を歩けない』のに、なぜ『イエスは歩いた』と書いているのか。『そんなはずがない。うそだ』と簡単に結論づけるほうが常識にとらわれ、考えることをやめているのではないか」
その上で、「ラディカル・リベラリズムの本質は、聖書を学問的に批判して読むだけでなく、教会を批判する」と指摘。「教会の伝統的理解や組織は、人を不自由にする古い権威であると拒否する。規範としての聖書、それを読んできた教会を否定し、正しいものは何もないとすることこそ『ラディカル』、つまり過激で急進的になる原因だ」
では「ラディカル・リベラリズム神学」について、教会はどう向き合えばよいのか。原田氏は、①教会の旗色をはっきりさせる、②「文献学」を学ぶ意義と課題を理解する、③聖書を教会で共に読み成長する、の三つのポイントで話した。
①では、『現代キリスト教神学入門』(W・E・ホーダーン著)の「保守主義者は、非保守主義者の優れた学徒」という見解を挙げ、自身の体験を分かち合った。「ホーリネス派の信仰伝統を大切にする日本基督教団の教会で洗礼を受け、大学生時代は福音派の教会の礼拝に出席し、キリスト者学生会(KGK)のメンバーだった。20代の終わりに献身。日本基督教団の教師養成を担う神学校の一つである東京神学大学で学んだ。神学生の時、『私は福音派』と旗色を鮮明にし、『主流派の中の福音派』でありたいと願った。授業を受ける中で、『聖書信仰』は大いに揺さぶられたが、ますます『聖書信仰』を大事にしたいと思った。同時にここで、説教と聖礼典(バプテスマと聖餐)に基づく教会形成の大切さを学んだ」
②として、東京神学大学で文献学の基礎を学んだことを挙げ「文献学は『学問』の一分野。聖書もまた古代の文献であり、『信仰がある、ないに関わりなく、聖書を研究する土台』であるということ。その意味で文献学すべてを拒否する必要はない。一方、『ブルトマンで教会はたたない』という先生のひと言も忘れられない」(つづく)