明らかになる津波被害と原発事故の脅威 私の3.11~10年目の証し 第三部 いわきでの一週間③

商品棚が空になったマーケット(2011年震災直後)

私の3・11」第三部は、私と当時出会った人たちの体験を中心に、10年を振り返る。【高橋良知】

▼2011年3月11日
避難をさせてもらったいわき市のグローバルミッションチャペル(単立平キリスト福音教会)で室内の片づけをしながら、常時ラジオをつけていた。夜までにはTBSやNHKがインターネットで放送の同時配信を始めた。チャペル2階のリビングには、大型のディスプレイが設置され、ニュースが流れ続けた。
「原発は大丈夫か」。いわき市の北、約40キロ先に福島第二原子力発電所、50キロ先に第一原子力発電所があった。午後7時3分に「原子力緊急事態宣言」が発令され、午後9時23分には第一原発から3キロ以内に避難勧告、3~10キロ圏内に屋内退避指示が出された。チェルノブイリ事故のようなことが起こるのではないか。想像のつかない事態に緊張し、夜更けまで皆でニュースを凝視していた。

▼2011年3月12日
「すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ」Ⅰ歴代誌13章10節(新改訳 第三版)

この日のデボーション誌「マナ」の個所はⅠ歴代誌13章5~14節、神の箱を運ぶ場面だった。解説には「ただはっきりしているのは、この後、ダビデをはじめ人々は、主への恐れを心に抱いて、神の箱を安置する作業をしていった」、「主のみことばのとおりにすること、これが国の再建の柱として改めて確認された」とあった。
東日本大震災では、大地も人間も社会も簡単に揺さぶられた。卒業式や様々な予定は消えた。ただ私の実害はその程度だ。家族を失い、家屋や故郷の壊滅に直面した人に安易に神の摂理は語れない。ただ当時の私としては、人の思いや自然を超えたところにいる神の存在、神への恐れの思いが強まった。
一晩中余震は続き、眠りは浅い。部屋はある程度片づいていたが、物の破片やちりが残っているのか、少し空気が粉っぽく感じた。ウェットティッシュで体をぬぐった。
朝6時までには、避難指示区域が第一原発から半径10キロに拡大、8時前には第二原発の半径3キロに避難指示、10キロ圏内に屋内退避指示が出された。
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五十嵐義隆さんは、この日も、勤めていた乳飲料会社に出社した。飲料を生産していた仙台工場など各地の工場は再開の見込みが立たない。物流も止まっていた。自分たちの業界だけでなく、スーパーや問屋、他の流通が止まることも予想された。青年ミニストリー「ラブ・レボリューション」のつながりで、全国の仲間たちにミルクやおむつなど、日用品の手配を依頼した。
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阿部俊弥さんは、夜が明けると、沿岸に向かった。いつも乳飲料を配達している先のお客さんの安否が気になったからだ。信号の電灯は消え、車もほとんど走っていない。道もあちこちで通行止めになっていて、分断されていた。倉庫の冷蔵庫が止まっていたので、乳飲料を車に載せられるだけ載せて、避難所となっている小中学校の体育館など十数か所を回った。沿岸部小名浜の江名付近まで行き、その日は帰った。
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グローバルミッションチャペル教会員の小野泉さんも、知人がいる沿岸の薄磯、豊間地域に向かったが、通行止めになっていた。車を止めて、山を越えて、薄磯地区に入っていった。市内でも津波被害が大きかった場所だが、知人とは連絡がとれて無事を確認できた。だが通り道、消防団や地元の人々が倒れた家屋から遺体を引っ張りだす姿を目の当たりにした。「顔は見なかったものの、崩れた建物から靴下をはいた足が出ているのが見えました…」
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この日、私は、引き続き、グローバルミッションチャペルの片づけを手伝うなどをしていた。午後3時36分、第一原発一号機で水素爆発。原発建屋から煙が上がる不鮮明な映像を見た気がする。
午後5時39分、避難指示区域が第二原発の半径10キロ圏内に、午後6時25分、避難指示区域が第一原発の半径20キロに拡大した。各地の死者、行方不明者の数字もどんどん膨らむ。特に岩手県陸前高田市や宮城県南三陸町では、町の中心部のほとんどが壊滅し、詳しい状況が分からない。地形や水没の様子がCGの推測映像で伝えられていた。(つづく)