対立の中における公共神学 イスラエル紛争で論稿・声明 解説・稲垣久和

災害支援や福祉において、「公共神学」が注目されてきた。日本において公共神学の推進的役割を果たしている稲垣久和氏が、世界の公共神学の動向を伝える。特に昨年11月に刊行された国際雑誌「国際公共神学」(International Journal of Public Theology、以下「IJPT」)では、「対立における公共神学」というテーマのもと、論稿と「イスラエル/パレスチナに関する声明」が発表された。合わせて稲垣氏が解説する。(同誌の巻頭言と声明の翻訳、主要論文要約はこの記事下部のリンクから)
文化の葛藤の中で神学する
解説・稲垣久和=(財)日本キリスト教教育センター常任理事、東京基督教大学名誉教授
公共神学とは何か
日本でも「公共神学」という分野に関心をもつキリスト者たちが徐々に起こされてきている。世界のキリスト教は欧米中心から大きく離れつつある。信仰のあり方も欧米の個人主義的なものへの反省から、コミュニティーとそこに埋め込まれた教会や信徒が文化と葛藤する中で、独自に神学すること(doing theology)を重視する方向へのシフトが見られる。
公共神学は従来の神学とどこが違うのか。聖書とキリスト中心であることは全く同じだが、そのキリストが十字架上で死なれ、かつ復活したことをはっきりと信仰に受肉させた上で、世の人々の憂いと苦しみを共に担おうとする。同時にキリストは創造者なる神の第二位格であり、神の右に座す世界の主権者(コロサイ1・16)であり、被造世界との間の和解者である(エペソ2・16)。ここから従来の福音主義神学を広げて文化や歴史そして諸学問、地球環境との対話を積極的に行っていこうとする。
従来の神学が教会と世俗の「聖俗二元論」に陥りがちになるのに対して、「親密圏」と「公共圏」の区別をはっきりさせる。教会は「親密圏」に属していると自覚しつつも、市民社会の属する「公共圏」との対話を重視する。世との和解者・キリストへの信頼がこれを可能にする。従来の神学の専門用語を〝翻訳〟して言葉と行いにおいて公共圏とのコミュニケーションを絶やさない。
非欧米社会こそ求められ る文化との対話
公共神学は「日本の神学」や「〇〇の神学」といった属格の神学ではなく、従来の神学を核に持ちながらそれを拡大しようとする。文化とのコミュニケーション(〝翻訳〟)を重視するという意味では「宣教の神学」に近いが、ただ文化だけではなく歴史や諸学問とも対話しつつ神学をより豊かなものにしようとする。同時に「神学とは何か」という本質にも迫る。
他方で、公共神学の国際雑誌「IJPT」には欧米以外からの寄稿が多い。文化と歴史が欧米と異なる所での教会形成は、市民社会(公共圏)との対話を意図的に開発しないことには、教会それ自身の存続が危ぶまれるからだ。ただし、雑誌を散見しても、公共神学は地域ごとに強く文脈依存的であり、必ずしも体系性は見られない。それでも教会の存続をかけた「神学する」真剣さが見られる。
〝福音〟が武器化されたガザへの攻撃
昨年11月に出版された最新の「IJPT」では、パレスチナ人神学者ヨセフ・アルコーリ(ベツレヘム聖書大学)の論稿「どの福音か? ガザでのイスラエルのジェノサイドにおける聖典の軍事化」が、「福音とは何か」を改めて浮き彫りにして我々の信仰を揺さぶる内容だ。
ガザへのイスラエルの攻撃は1月9日から6週間の停戦とは言うものの、今度はトランプ米大統領が、ガザ住民のアラブ諸国への強制移住ともとれる発言をしている。これは伝統的な強硬シオニスト派の主張をそのまま鵜呑(うの)みにしたものであり、国際舞台での各専門研究者や神学者も緊急声明を出して強く非難している。いま日本人キリスト者に必要なのは聖書の深い真理と「イエス・キリストの愛と平和の福音」の理解である。
聖書は時として、パレスチナの人々を抑圧していくことに利用されてきた、、、、、
リンク
(2025年02月23日号 06面掲載記事)