エルマンノ・オルミ監督・配給=クレスト・インターナショナル。イタリア映画 東京・岩波ホールで9月25日まで、その他全国ロードショー公開 ©2006 cinema11undici-Rai Cinema

ヨーロッパ最古の大学、ボローニヤ大学の図書館で、多くの貴重なカトリック教会関係の古文書が太いくぎで床に貫かれるという衝撃的な事件から映画は始まる。

犯人は若い哲学教授だった。彼は、警察の追っ手を逃れるように、ポー川をさかのぼり、その岸辺に朽ちた石造りの小屋を見つけ、それを修復して住み始める。彼に関心を示した村の人々は、彼のイエス・キリストに似た風ぼうから「キリストさん」と呼び親しみを表すようになる。

ポー川沿岸の息を飲むような美しい自然……しかしそこに住む人々にはそれぞれの悲しみがあり、部外者の「キリストさん」の存在はいつしか、村人に生きる勇気と慰めを与えていく。

「カナの婚宴でのぶどう酒の奇蹟」「放ほう蕩とう息子の帰還」、ごく平凡な生活の場面で語られるイエスのたとえ話が胸に迫る。「キリストさん」の語り口がなんとも魅力的なのだ。やがて、警察の手は伸び、「キリストさん」は拘束され村を去って行く。だが、人々は、必ず「キリストさん」が帰って来ると期待を持って、村に通じる道に沿って光をともしていくのだ。

ところで、なぜ哲学教授は、カトリック教会に反逆するような行為に出たのか?
警察に拘束された後、古文書研究にすべてをかける恩師の司教と対面したとき、哲学教授は激しく叫ぶ。「あなたが、愛しているのは人間ではない。書物なのだ」。このことばは、オルミ監督が、この作品に込めた意味のすべてを語っているように思える。

カトリック信徒であるオルミ監督は言う。「多くの人間たちの中からだれを、この闇に閉ざされた時期にあって、心の支えと希望を見出すための指標となり得る人類の絶対的な模範として思い出せばいいのだろうか?」

ここで、思い出すべきは、在野のキリストであり、祭壇上の香をたかれた偶像のキリストではない、とオルミ監督は主張する。この痛烈なカトリック批判とも思えるオルミ監督の主張に、イタリアで上映された後、大きな反響が起こったという。

病める時代に、原点回帰のメッセージを聖書を通して描いたこの作品、日本ではどのように受け止められるか。(守部喜雅)

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