映画「ありがとう、トニ・エルドマン」--ユーモアは自分の心を解放させる常備薬
自分の子どもは幸せに生きていてほしい。世の親が誰しも願うことだ。だが、幸せの価値観は、親と子では異なる場合もある。社会的ステイタスを駆け上りセレブレティな地位を目指すものがあれば、地位よりも自分らしい生き方に満足するものもある。「人生にユーモアを忘れてはいけない」と語る主人公は、自分の心を縛り付けている執着から解放させる常備薬としてユーモアを連発するのだが、なんとも苛立つほどに寒い親父ギャグで間の悪いこと。その意味ではコメディドラマのジャンルかもしれないが、「自分の幸せ探しを見失わないでほしい」と、主人公の父親がビジネスエリートの娘におくるメッセージの伝え方が、とても親の愛に溢れていて泣かされる。
【あらすじ】
音楽教師を引退し悠々自適に暮らしているヴィンフリート・コンラーディ(ペーター・ジモニシェック)は、「人生にユーモアは大事」が持論で悪ふざけが大好き。郵便会社から荷物が届いても、すんなりサインせず、弟に成りすます変装と芝居をして対応する。コンサルタント会社に努める娘のイネス(ザンドラ・ヒュラー)は、ビジネスでルーマニアの首都ブカレストにいる。ヴィンフリートは、歩くこともおぼつかない老犬ヴィリーと二人暮らしだ。ある日、イネスが帰郷し離婚した妻の家に集まり久しぶりに再開したヴィンフリート。だが、ひっきりなしに掛かってくるビジネスの電話に対応し、ゆっくり家族と話す時間もない。挙句は、ヴィンフリートの母にも会わず、とんぼ返りのように慌ただしくブカレストへ戻ってしまった。
それからしばらくして、ヴィンフリートの愛犬ヴィリーが庭で静かに息を引き取っていた。ヴィンフリートは休暇を取って帰郷しても家族とゆっくり過ごせなかったイネスのことが気になっていた。イネスに連絡もせずブカレストの会社に突然現れたヴィンフリート。驚くイネスは、一応上司のゲラルト(トーマス・ロイブル)に相談すると、「父親は大切にしてあげなさい」の一言。だが、大手石油会社との契約延長がかかったプロジェクトを進めているイネスは、重要なスケジュールを外して帰宅することはできない。助手のアンカ(イングリッド・ビス)を介して財界人らが集まるレセプションに案内する。ラフなスタイルで見るからに場違いなヴィンフリートは、ビジネスエリートたちの英語も話題も分からず浮いている。イネスは、交渉相手の取締役ヘンネベルク(ミヒャエル・ヴィッテンボルン)に接触できたが夫人のショッピングのお相手を振られてしまう。挙句は、不用意なちょっとした一言で、ヘンネベルクが不快な表情をみせたことで疲れ切って帰宅するイネス。
数日をイネスのマンションで過ごしたヴィンフリートだが、ブカレストから上海異動へのステージアップ目指してシャカリキに働くイネスが幸せそうには見えない。ヴィンフリートが帰国する日、顧客との約束の時間が過ぎてもイネスは疲れ切って寝過ごした。ヴィンフリートが起こしにいくと携帯に4回も着信記録が入っている。「なぜ起こしてくれなかったの!」と八つ当たりするイネス。ヴィンフリートは「お前をほっとけないよ…」と心残りの言葉を残してタクシーに乗る。見送るイネスは、なぜか涙がこぼれてくる。
イネスが、レストランでイネスがステフ(ルーシー・ラッセル)、タチアナ(ハーデウィック・ミニス)と女子会を楽しんでいると、イネスの背後から「ご婦人たち、シャンパンはいかが?」とぼさぼさのカツラに出っ歯のつけ歯をつけて変装したヴィンフリートが声をかけてきた。それが父親だとすぐ理解したイネス。男は「トニ・エルドマンです。コンサルティングと人生についてコーチングしているビジネスマンだ」と名乗る。それ以後、トニ・エルドマンは、イネスの身近に頻繁に現れる。上司と上海異動について屋上で議論しているとき、職場の彼氏といっしょに参加したパーティでは居合わせた婦人に「ドイツ大使です」と適当な返答と名乗り、イネスを「秘書です」を紹介するなど、イネスは気が気でない。カーパーティーと称して彼氏や女友達とコカインを吸っているところにも現れた。翌朝、「お前を逮捕する」とイネスに手錠をかけて諭そうとするヴィンフリート。だが、手錠のカギが見つからない、時間が迫っていて仕方なくイネスは、トニ・エルドマンを現地のブザウ油田に連れていくことになる…。
【見どころ・エピソード】
吉本新喜劇のようなギャグコメディとは趣が異なり、どことなく居心地の悪くなる親父ギャグの連発。父ヴィンフリートが、仕事に心が埋没していくイネスの問題行動や人間らしい心のゆとり、社会の歪みに目を背けている姿にずけずけ入り込んでいくからだろう。ルーマニアはEUの加盟国とはいえ石油や資源の採掘権は国際企業に握られ、現地の労働者階級は“安い労働力”としての商品価値にしか見ない先進大国企業の経営者たち。イネスは、企業経営サイドの利潤獲得のために命をすり減らしている。
トニ・エルドマンがパーティで「ドイツ大使」と偽った婦人宅のホームパーティへ謝罪に行こうとするのを留めようとしてついて行ったイネス。トニは、突然、「秘書のイネスが歌をプレゼントします」と言い出す。トニ・エルドマンがキーボードで弾き始めたのは“Greatest Love of All”。モハムド・アリの伝記映画「アリ/ザ・グレーテスト」(1977年)の主題歌としてジョージ・ベンソンが歌い、ホイットニー・ヒュートンが1986年にカヴァーして全米No.1になったヒット曲。リンダ・クリードが作詞したとき、彼女はがんを発症していて、ホイットニーがこの曲で全米No.1に輝く数週間前に36歳で夭逝しています。それを想うと、子どもたちは私の未来と謳い、自分らしさを見失わず自分を愛することを忘れないで生きてと歌うこの曲のスピリットが、父から娘への心情がくみ取れます。突然のことに驚くイネスですが、自分の立ち位置と父親の心配を感じながら歌うイヌスは女優の歌唱としてとても心に残る泣かせるシーンでした。
EUや世界企業と経済格差におとしめれている国での住民を人間としてみるトニ・エルドマンと仕事に埋没していくイヌスの感性の違い、それでも人間は自分を愛することから始まり、少しづつ互いに分かり合えるところを見出し心を寄り添える希望とやさしさに溢れたラストシークエンスが印象的な作品です。 【遠山清一】
監督:マーレン・アーデ 2016年/ドイツ=オーストリア/162分/映倫:PG12/原題:Toni Erdmann 配給:ビターズ・エンド 2017年6月24日(土)よりシネスイッチ銀座、武蔵野館ほか全国順次ロードショー。
公式サイト http://www.bitters.co.jp/tonierdmann/
Facebook https://www.facebook.com/ToniErdmann2017/
*AWARD*
2017年:第89回 アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。第74回ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート。 2016年:第69回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞ほか多数。