【新型コロナ関連】寄稿「非日常」を「日常」化させないために 日本バプテスト連盟福岡国際キリスト教会主任牧師 篠原健治

「非常事態宣言」下での
受難週とイースター
受難週のただ中の4月8日、福岡でも非常事態宣言が出されました。私の牧会している教会のある天神(九州最大の繁華街)でも、行き交う人の数がほとんどいなくなりました。
私の教会は国際教会ということで、観光で福岡を訪れたクリスチャン(新来者)が毎日曜日に礼拝に参加してくださっていましたが、2月に入り激減し、それ以降はゼロの状態が続いています。
そして迎えた4月12日(日)、何とも言えない緊張感の中で、イースターの日を迎えました。

「ネット礼拝」ブーム?
教会が新型コロナウイルスの感染源になってはいけないということで、礼拝堂での礼拝を中止し、ネット礼拝に切り替える教会が急増しています。私たちの教会でも遅ればせながら、教会員だけに主日礼拝の説教だけを配信することを始めました。正直に言うと、「ピンチをチャンスに」と考え、説教をネットで公開して多くの方々に見ていただくという考えが頭をよぎったのも事実です。
しかし、同時に、ネット礼拝の「副作用」についても考えました。これは極端な例かもしれませんが、自分の教会以外の礼拝を見て回り「この教会の牧師の説教は、自分の教会の牧師よりいい」というコメントを見て愕然(がくぜん)としました。本来であれば、自分の教会や牧師のために祈る教会員が、ネット礼拝ゆえに、帰属意識を低下させてしまう可能性もあります。また、ご高齢の方で、ネットへのアクセスの仕方が分からず、牧師や役員が対応に追われるということも現実に起きています。

礼典の危機
私の牧会している教会では、緊急事態宣言が出る前から感染防止の観点から「主の晩餐(聖餐)式」を中止しています。本来であれば受難週の始まる4月5日(日)に「主の晩餐(聖餐)式」を行う意義はとても大きいのですが、断念をせざるを得ませんでした。
言うまでもなく、ネット礼拝では「バプテスマ(洗礼)式」「主の晩餐(聖餐)式」は限界があります。今回、教会堂に集うことでしかできない礼典があることを改めて認識しました。そう言った意味からも、今は、「礼典の危機」であることも自覚したいです。

教会に行かないことが 「習慣化」する恐れ
以前、ある戦闘地域に暮らす子どもたちのドキュメンタリーを見たことがあります。戦闘がある間は、子どもたちは屋内に避難しているのですが、戦闘が一時的に終わった後、大人が外の安全を確認すると子どもたちが一斉に外に飛び出して友達と遊び始めます。そして、再び戦闘が始まると屋内に逃げていく。
その子どもたちにとっては、それが「日常」かもしれませんが、戦闘のない日本に生活する私たちにとっては、どう見ても「非日常」的にしか見えません。
すでに非常事態宣言が出る前からネット礼拝に切り替えている教会では、教会員が教会に行かない「非日常」状態が約2か月間以上続いていると聞きます。ある意味で、教会に行かないことが「日常化、習慣化」している可能性があります。
もちろん、近日中に、終息宣言が出ることを信じていますが、教会に行かない期間、礼典を行わない期間が長くなればなるほど、以前のように教会に行き、礼典にあずかるという「日常」を取り戻すためには、大きな時間とエネルギーがかかるかもしれません。

「非日常」を一つの契機とする
今、私たちクリスチャンは、見えないウイルスとの闘いを強いられている「非日常」の中で生かされています。今まで、当たり前のように行ってきた主日礼拝、祈祷会、教会の諸活動も制限せざるを得ません。しかし、そんな「非日常」の中でこそ、見えてきたものもあるのではないでしょうか。
例えば「教会にとっていちばん大切なことは何なのか」「本当にこの活動は、教会にとって必要なものなのか」など、「日常」の教会の生活の中で何気なく行ってきたことを見直す良い機会かもしれません。

「新しい日常」を待ち望む
新型コロナウイルス終息後、世の中をはじめ教会がどうなっていくかを見通すことは難しいかもしれません。しかし、「非日常」が「日常」になっていかないためにも、終息後に今までの「日常」とは異なる「新しい日常」があることを信じたいです。そのためにも、共に祈り忍耐していこうではありませんか。
「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」(ヤコブ5・8、新共同訳)