郷里の風景が一変 ~10年目の証し第二部 震災で主に出会った① 私の3.11

写真=南相馬市沿岸。防風林用の松の育成は半ば 

10年前の東日本大震災が、キリスト教信仰と出会うきっかけになった人がいる。福島第一原子力発電所から30キロ圏内にある福島県南相馬市で、接骨院・鍼灸院を営む冨澤利男さんだ。

「震災当時は誰もが無我夢中でその日その日を過ごしてきたが、時間と共に明らかになった被害の大きさに言葉もない。『神様はどうしてこのような悲しみを許すのですか』と心の中で叫んだ。この問いはクリスチャンになった今でも続いています」
今回から数回は冨澤さんの震災後の歩みをたどる。それは多くの出会いの時であったと同時に、親や家族と向き合い直す時でもあった。

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海の近くは、真っ平らな更地が続いていた。2021年1月10日、南相馬市の沿岸付近を冨澤さんに案内してもらった。「ここの集落は流された」「ここの坂が浸水の分かれ目だった」。釣り好きの冨澤さんの脳裏には震災前後の沿岸の風景が見えている。震災1週間後にも沿岸付近を車で走ったと言う。現在目にできるのは、更地、育成中の小さな松の木たち、あるいはソーラーパネルが敷き詰められた一帯だ。堤防付近では風力発電のプロペラが回っている。

「20キロ圏内は避難指示で強制的に避難を余儀なくされた。現在、原発周辺と線量の高い地域がまだ解除されていない。震災から9年目にしてやっと、公共の交通機関である常磐線が全線開通した。なんと9年もの歳月がかかった。この地は全く陸の孤島と化してしまった。そんな中、国は東京オリンピック誘致に奔走し、本当に憤りを禁じ得ない。震災から10年。いまだ原発では汚染水処理の方法を模索している段階で復興も前途多難といったところ…」。冨澤さんは率直な思いを語った。

写真=豊かな釣り場だった渓谷

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釣り好きの冨澤さんにとって、もう一つかけがえのなかった場所が、南相馬市西部、国見山のふもとの渓流だ。イワナやサンショウウオが釣れた。「しかし、それが原発事故でだめになった」と嘆く。震災後5、6年、山の入り口は閉鎖された。「釣りの時に寄っていた老夫妻の家があった。キノコや山菜の季節になるといつも連絡をくれました」。今回久しぶりに山に来たという冨澤さんは、老夫妻の家の付近も案内してくれた。家に人の気配はなかった。渓谷は薄く雪化粧がされ、澄んだ水が豊かに流れていた。「上流の方でいつも水を汲んで、それを米を炊く水などに使っていた。しかし今は、宮城や蔵王の水を使っています」

相馬市沿岸の松川浦にも連れて行ってくれた。堤防に囲まれた内海となっていて、島や小高い崖など変化に富んだ地形も眺められた。「震災前には松林が茂っていた。その景色は10年たっても取り戻せるかどうか」

この日、港にはいくつも漁船が並んでいた。観光物産店なども最近できた。「今も一か月に一度船で釣りに出ます」。かつて日曜日は「釣りが第一」だった。当初、釣りに行けないことは教会に通う上で壁に感じたが、「今は礼拝第一に変わりました」
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2011年3月11日、南相馬市中心部原町にある職場の接骨院で、今までに経験したことのない揺れを体験した。「患者さんはいなかった。ヒュウーゴウーという地響きの直後グラグラン、グラと揺れ始め、立っていることができず、思わずしゃがみ込みました」。家の前の駐車場に地割れが見えた。茶の間のブラウン管の重いテレビが転がり落ち、ガタガタガタと強い揺れは数分続いた。家の中の荷物は散乱した。娘は当時寝たきりだった母の身を案じて覆い被さっていた。母に思いが及ばなかった自分を恥じた。

テレビをつけると、大津波警報発令の表示。地震後30分もたたなかったが、ヘリによる上空からの映像がリアルタイムで放送されていた。息をのんで見たのは、宮城県名取市の海岸線に津波が押し寄せる映像だった。「何も知らず車を運転している人たち、家屋、車が次々と飲み込まれていく映像にただただ…絶句。しかし、福島県の沿岸部にも津波は押し寄せていたのだが、その時は知るよしもなかった。私の住まいは太平洋から約2キロ。海から1キロ強は津波が押し寄せていたのでした」(つづく)

連載 私の3.11

東日本大震災から10年