写真=いわき駅前広場
「私の3・11」第三部は、私と当時出会った人たちの体験を中心に、10年を振り返る。

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10年前いわき駅前などでの伝道活動「デリチャ」(デリバリーチャーチ)を展開していた山本昇平さんは現在学習塾の経営者だ。3月にZoom越しで再会すると、山本さんは火のついたように語りだし、クリスチャンの生き方、教会、伝道の在り方など、話は6時間に及んだ。10年間様々な所を通ってきた山本さんだが、「伝道師の召し」を確信するその言葉の鋭さや情熱は変わらない。【高橋良知】
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震災後、山本さんは、「グローバル」(グローバル・ミッションチャペル=単立・平キリスト福音教会)で、海外支援グループの通訳や、様々な救援活動を担った。駅前の「デリチャ」にもボランティアが参加し、にぎわった。ただ10年たって思うのは「いろんな幻想がなくなった」ということ。

「いわゆるたくさんの人が救われる『リバイバル』のためずっと祈り続けていた。震災でたくさんのボランティアが来て、福音もそれまでよりはるかに多くの人に届いたはず。けれども潜在的には分からないが、100人、千人救われる、といった目に見える形の『リバイバル』は起きませんでした」

「僕自身変わったのは伝道のやり方。大事なことは特定の伝道者や牧師任せではなく、クリスチャン一人一人の姿勢」と言う。「パーティーや賛美集会など、何でもやってきた。しかし大事なことは、教会活動ばかりではなく、家庭と仕事場でちゃんと仕えることだと思った。海外の偉い人やタレントの知名度で人を集めるよりも、人が見たいのは、自分の知り合いのクリスチャンがどう世の中の人たちと違うか。他の宗教がやるように、政治や芸能で人を集めようとするのはどうなのか。イエス様は人々から王になることを期待されたが、むしろ世の中から取り残されている人たちとかかわった。そのような人たちが変えられたならば影響力はすごいと思います」

「震災があっても人の心はなかなか変わらない。教会が世の中よりすぐれているものがあるとすれば愛だけ。どれだけ大きなことをしたかでなく、どれだけ愛を込めたか。教会に人を集めるばかりではなく、クリスチャンがいるところが、神の国、教会となっていければいい」と勧める。

教会の外に福音を持っていくという「デリチャ」のコンセプトは変わっていない。「昔は十字架を担いで駅前にいき、やがてギターを弾き、全国も回った。課題だったのは、『伝道モード』と『そうでないとき』があること。もっと日常生活に落とし込みたかった。イエス様は常に礼拝、伝道、賛美だったと思う」と話す。

「伝道の実が結ぶには、『恵みを聞いて本当に理解』(コロサイ1・6)することから」と語る。「僕自身も圧倒的に恵みを受けて悔い改めた。伝道のスタイルはいろいろあっていいが、恵みを知ることにかかっています」

「神様はご自分が造られた世界を愛し、ご自分の代務者である人間を通して、すべての被造物を養いたいと願っている。神様は人をガラクタとは見ない。僕らを通してその人を養い、その人があるべき神のデザインになるようにする。宣教は教勢が広がる以上のもので、神様が求める正しい宗教は孤児ややもめを養うこと。そのような人たちに目を向けていないなら、たとえ教会堂がどんなに立派でも、イエス様に言われていることができていない。教会の活動に熱心でも、隣人を愛しているかどうかがリトマス紙になります」
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現在は「グローバル」を離れ独立した立場で活動する。「教会のリーダーシップへの疑問や、様々な課題のある人とかかわった疲労やストレスから腰痛に苦しんだ。3か月耐えたが、信仰が揺らいだ」と振り返る。2015年にしばらく休息の後、生計のため塾講師をし、翌年からは塾経営を始めた。祈りの中で「赦し」への促しを受け、昨年「グローバル」のリーダーや、活動の方向性で袂(たもと)を分かった仲間らと和解をした。「僕自身にも未成熟な部分、『愛されたい』という気持ちが強かった部分があったと思う。

『グローバル』に戻ったり、昔の仲間と同じ活動をすることはないが、距離を置いたことで冷静に見ることができた」と話す。「グローバル」の先輩や他教会の何人かのクリスチャンとの交わりは続いている。「何かの運動、集会には心が向かない。これからは草の根的なことに焦点を当てたい」と述べた。SNSで呼びかけてバイブルスタディーも実施している。「傷ついた人、様々な課題を抱えた人と一対一で向き合う。依存関係にならないように、自立してもらう姿勢でやっています」

「生涯の御言葉」とするのはⅡコリント5章17節。「自分自身過去に縛られてきた。しかし、そこから学び、『すべて新しく』されたことで、伝えられることがある。自分は神様から与えられた伝道者というアイデンティティーからは離れられない。伝道者に似つかわしくないことは、自分には合わない。その限りにおいて自由にやっています」(つづく)