忍耐の一週間と支援の開始 私の3.11~10年目の証し 第四部仙台での一週間③

写真=支援物資を運び入れる 写真提供=門谷信愛希

東日本大震災発生時、学生だった私(記者)は、当時所属していた仙台福音自由教会(以下仙台教会)の震災支援活動に合流した。【高橋良知】

前回まで

序 いわきから関東、再び仙台へ

①東北を祈る中で震災に直面

②通信困難な中、安否確認

 

2011年3月11日

日本福音自由教会協議会は即日に災害対策本部を設置した。当時の同協議会長が所在する中部地区に対策本部を置き、救援活動を準備した。

 

 3月13日

仙台教会の礼拝には通常の約半数の50人あまりが集った。停電のためマイクも使えず、ホワイトボードを使っての司式になった。当時教会員だった広瀬志保さんは「みな着のみ着のままといった姿だったが、『ハレルヤ』と賛美できたことが印象深かった」と振り返る。
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仙台から北約40キロにある古川福音自由教会の状況はしばらく仙台では把握できなかった。
3月11日、当時の古川福音自由教会牧師の栗原延元さんは、古川駅近くの歯科医院で治療を終えて会計をするところだった。「内陸の大崎市付近は、地震の揺れ自体は県内でもっとも強かった。新幹線の高架橋から何か水が流れ出し、古い建物は倒れ、川の土手は崩れていた。教会堂は、本棚やタンスが倒れ、めちゃくちゃになっていた」と話す。13日の礼拝では通常の約半数の16、17人の人が集まった。教会員の中には、家族、親戚を亡くした人、家族の家が津波に流されたり、浸水したという人もいた。

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仙台教会には学生など数人の青年が避難した。アルファ米などの備蓄はいくらかあったが、4、5日たつと、「サバ缶一つを大人4人で分け合う」という状況になった。そのような中、教会員が届ける物品に助けられた。

2011年度「年報」で門谷信愛希さん(当時仙台教会副牧師)は「このような時のための水や食料の備蓄、また炊き出し機材や発電機の準備があったならば、教会員や周辺住民の方々にサービスをすることができ、主の愛をより広く証しすることができただろうに。その備えも、また心の準備もしていなかったために、この一週間ただうずくまっているしかなかったことには忸怩(じくじ)たる思い。『駆け込み寺』という言葉がありますが、教会こそ、地域にとってそのような場所となるべく万全の備えを普段からしていくべきではないか、という思いを強くした1週間でした」と振り返る。

 

 3月15日

仙台では電気が回復し、協議会と密に連絡をとれるようになった。日本国際飢餓対策機構(ハンガーゼロ)が被災地に現地入りする。

 

 3月18日

仙台市近辺の諸教会担当者や災害支援団体スタッフらが一堂に会し、教会の被害状況と支援活動について情報交換をした。これが「東北ヘルプ」(仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク)となる。

 

 3月20日

震災後2度目の仙台教会の礼拝についてこんな記録がある。「主の励ましに溢れる賛美に、男女問わず涙する姿が多く見られ、このような状況だからこそ主に期待しよう、主を求めていこう! という思いに溢れた、感動的な礼拝となりました。『神の家族』の素晴らしさを、この時ほど感じたときはありませんでした。困難だからこそ、むしろ主を信頼する。あのような、人知を越えた災害を前にして、私たちの信仰は、深まっているように思います」(石巻福音自由教会ブログ内「支援活動ブログ」)

 3月21日

関東からの救援チーム第一陣のワゴン車2台が到着した。ポリ袋に食品・生活用品数点、「緊急支援物資あります」と案内を入れ、教会近辺に配ると、次々と人々が教会に訪れた。続いて長野県の信徒夫妻が近隣の農家から提供されたガソリンを携え駆けつけた。

私は昼に仙台に到着し、市街の様子を見てから、仙台教会へ向かった。教会堂に入ると、「水道が通った」と興奮する声が聞こえた。物資整理のために続々と教会員が駆けつけ、再会を喜んだ。

夕方、関東からの救援第二陣のトラックが物資を満載にして到着した。30人ほどの教会員が、リレー方式で物資を手渡しし、教会堂横の教育館に運んで分類した。
「はい、カップ麺」「お菓子」「消毒ジェルはこっち」「石油ストーブは奥に」。ふだん関わりが薄かった人たちとも声を掛け合い、その場には笑顔が見られた。(つづく)

クリスチャン新聞Web版掲載記事

連載各部のリンク

第一部 3組4人にインタビュー(全8回   1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った  (全4回   3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間   (全16回 4月25日号から8月22日号)