【神学】霊性に日本仏教との接点をあぶり出す 金子晴勇著『東西の霊性思想』評=濱 和弘

『東西の霊性思想 金子晴勇著』
キリスト教と日本仏教との対話
四六判 上製 288頁 1,980円(税込) ヨベル

日本人にキリストの福音を伝えようとするとき、仏教思想を理解することは避けて通れない。『ルターの人間学』『アウグスティヌスの人間学』などの著作があるキリスト教思想史家の金子晴勇氏が、キリスト教と日本仏教との対話を試みた新刊『東西の霊性思想』(ヨベル)は両者の霊性を現象学的に捉える。

【評】濱 和弘
(はま・かずひろ)
明治大学を卒業後、東京聖書学院、立教大学院、アジア神学大学院で学ぶ。日本ホーリネス教団小金井福音キリスト教会牧師、東京聖書学院講師。主著は『エラスムスの神学思想における人間形成』、『人生のすべての物語を新しく―シェルターの神学から傘の神学へ』。論文として「エラスムスEnchilidion militis Christianiにおける霊の完全性」他。

 

神秘主義の中に見る人間の内的経験の現象

 

本書の著者である金子晴勇氏は、日本におけるキリスト教思想史の大家である。
著者は静岡大を卒業後京都大大学院で学び、国際基督教大、立教大、国立音大、岡山大、静岡大、聖学院大で教鞭をとり、研究者としてはアウグスティヌス、ルター、エラスムス等の思想を、一貫して人間学的視点から捉えてきた。

本書はその著者が、自身のもう一つのテーマであると言う霊性の問題を取り扱ったものであり、西洋のキリスト教と日本仏教における霊性を比較しつつ概観できるように構成されている。

実は、著者は日本的霊性を主題化し叙述した鈴木大拙の影響を受けた西田幾多郎の思想を受け継ぐ西谷啓二や武藤一雄から直に学んでいる。その意味では、日本人キリスト者として、日本人の霊性を考える道筋を示すにあたって、著者は最適な人物である。

そこで本書だが、著者は、本書の主題である霊性を現象学的に捉えると言う。というのも、霊性は超越的存在を看取する人間の内的経験であり、それゆえに霊性を第三者的に観察することはできないからである。従って、霊性を観察し探求し叙述するには、霊性が現象として現れ出る作用によるしかない。このような作業は、信仰という目に見えないものを、人間を観察する人間学の視点で捉えてきた著者の真骨頂である。

著者は、本書で西方キリスト教の伝統における霊性を神秘主義の中に見ている。その神秘主義は、基本的には神との合一を目指すものである。著者はその神秘主義を思弁的・形而上学的に捉える流れと、神と人との人格的結びつきとして経験する人格的神秘主義の流れに分け、前者を、ディオニシオスやエックハルトに、後者を神秘を魂と神との「霊的結婚」として語る花嫁神秘主義に見ている。

このような神秘主義の分析は、霊性が持つ二系統として捉えなおされ、最終的に日本的霊性とキリスト教との霊性における連関の可能性が示唆されるのである。

そこで著者は、まず本書の2章でそのキリスト教の霊性と日本の霊性が、それぞれヨーロッパと日本でどのように表出しているのかを、歴史や文学を通して表していく。

その上で3章、4章においては、そのキリスト教および日本仏教の霊性の特質を、思想史の文脈の中で捉え叙述するのであるが、前者においては、主にディオニシオス、アウグスティヌス、ルターが取り上げられ、後者においては、空海,法然、親鸞、道元、白隠といった人物が取り上げられる。

実は、読者がこの3章、4章を丁寧に読んでいくと、著者が本書で描く構想と意図が見えてくる。すなわち著者は、キリスト教と日本仏教の両者が持つ宗教性である霊性の特質は、思弁的にも人格的にも同じ性質を有していることを指摘し、その要にルターが築き上げた宗教改革的霊性があることを示唆するのである。

そのことは、5章、6章においてキリシタンの思想と仏教の出会いや植村正久、内村鑑三らの明治期のキリスト者の霊性を取り上げていく中で、また近代日本の仏教思想家の霊性を見ていく中で、より鮮明に理解することができるようになる。そこには、霊性における思弁的な側面と人格的側面の両面性が一貫して捉えられている。

そしてそれらを経たうえで、7章、8章でキリスト教と日本仏教の霊性の比較がなされ、共通性と相違性が述べられる。

その中で著者は、それを一般啓示と特殊啓示の枠組みの中で考察する。この点は極めて興味深い。著者も述べる通り、その共通性は自然啓示の中に、相違性は特殊啓示の中に見られるからである。

キリスト教における啓示とは、超越者である神と世界内の存在である人との接点である。そして日本人の豊かな霊的感性は、自然を通して超越的存在を看取し、自然との一体感の中で超越的存在を感じ経験してきた一般啓示的な感性である。

だからこそ、前出の鈴木や西田に代表される自己と自然に沈潜することで無の悟りに至る禅思想を核とする日本的霊性は、思惟によって被造世界から魂を離脱させ、そこにおいて神を認識し、神との合一を目指すエックハルトの思弁的神秘主義に結びつく。

ところがその一方で、今の日本の神学の主流は、一般啓示を否定し特殊啓示に集中するバルトにある。この点は、霊性の神学の視点から、また宣教論的視点からも決して見逃してはならない事柄であろう。なぜなら、バルト神学に依存している限り、鈴木的な日本的霊性とキリスト教の霊性とは、相交わることはないからである。

しかし、それでもなお著者は、その丁寧な神学思想史研究によって、キリスト教と日本仏教との間にある溝を相克し、両者の接点となる霊性をあぶりだしていく。すなわち、アウグスティヌスからルターへと継承され、宗教改革で実を結んだ恩寵(おんちょう)経験に基づく「信仰義認論」に表出した宗教改革的霊性が、日本仏教における宗教改革的経験ともいえる法然、親鸞の称名念仏「のみ」に救いを見いだす霊性と結びつくのである。そこには、人格的神秘主義が持つ信仰者の生の実践がある。

もとより、ルターと親鸞の近接性は既知の事柄である。本書は、その近接性を神学が持つ言葉の論理性からではなく、本書に一貫して流れる逆説的経験の逆対応の論理の中に見ている。そしてその逆対応こそが、霊性の論理なのである。そういった意味で、著者が本書において示す親鸞の「悪人正機説」の理解は実に味わい深い。

いずれにせよ、本書はキリスト教と日本仏教の霊性が同質のものであり、響きあうものであることを分かり易く明示する。それゆえに本書は、日本で生きるキリスト者にとって、宣教の糸口を示す必読の書であると言えよう。

クリスチャン新聞web版掲載記事)