【連載】私の3.11~10年目の証し 津波で孤立/復活信仰へ 第四部仙台での一週間14
前回まで
写真=東松島市の宮城聖書教会会堂。2011年3月。門谷信愛希さん提供
§ §
東松島市の聖協団・宮城聖書教会の田中時雄牧師(当時)は、2011年4月11日、東京・新宿区のウェスレアン・淀橋教会で開かれた第1回東日本大震災復興支援3・11超教派一致祈祷会、また13年3月11日の同祈祷会でそれぞれ震災当時の様子を振り返っている。
2011年3月11日
「日曜日の礼拝準備を終え、生鮮食品を買い出しに行こうとしていた矢先、突然、ドカーンという音と共に激しい横揺れが長時間続いた。地震後は津波が来ると認識していたので、近隣の家を一軒一軒回り、高台へ避難するよう促した」
教会に戻ると二階の窓から「津波が来てる! 早く逃げて!」と妻が叫んでいた。「振り返ると黒い津波が迫っていた。慌てて戸を閉め、二階へ駆け上がった。一階の礼拝堂は浸水し、どんどん水位を上げた。恐怖そのものだった」
その夜は、余震とその揺れではねる水の音で寝られなかった。
3月13日以降
13日日曜朝、突如、津波のように深い“喪失感”に襲われた。車、老後の生活、今後の伝道ビジョン、信徒、すべてを失ったような絶望感だった。そんな中、ヨブ記の「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1・21)に力づけられたという。妻から「通常通り30分のメッセージをしてください」と言われ2人で礼拝した。
わずかに残った食料を口にしながら過ごしていたが、4日目に自衛隊に発見され、愛犬と共に救命ボートで救出された。
3日間避難所にいた時のことを話した。「ほとほと弱り果てた。あばら骨を折っていたので、寝返りをうつと痛くて動けない。心の中で『神様、どうか助けてください。30年間、忠実にやってきたではありませんか』と祈っていた。そうするうちに寝込んでしまった」
だがその時イエスが現れ、こう語ったという。「2千年前、私もお前のため十字架に架かった…」
「夢か自分の思いかわからないが、確かに私に語りかけてくださった。しかも、自ら腰を低くして」。田中さんは「十字架の痛みを知ることができなかった。ごめんなさい。復活を信じます」と祈った。
その直後、捜索に来た次男と聖協団のチームの声が聞こえた(以上、11年4月24日号、13年3月31日号参照)。聖協団・清瀬グレース・チャペル菅谷勝浩牧師は当時超教派で立ち上がっていたフェイスブック公開グループ「クリスチャン地震被災状況」に、「たった今、避難所にいたところを確認されました。お祈りを感謝します」と書き込んだ。
写真=物資配布の様子
田中さんは残された教会員名簿をもとに連絡をとったが、信徒女性1人が死亡、男性1人が行方不明となった。宮城聖書教会での礼拝再開はイースターの4月24日。まだ泥と消毒剤のにおいがする中、教会員の約半数の20人が集った(11年5月8日号)。13年2月に聖餐式を再開した。行方不明の男性が見つかるまで控えていたが、役員会で『聖餐式しないとダメです』と言われた。聖餐式を振り返り、「震災前と全く違っていました。本当にイエス様が臨在してくださり、皆、泣いた。私が一番、泣いていたと言われました」と語った。
復興住宅に人々が移ろうとするこの時期、田中さんは「宣教の扉が閉じられる瀬戸際にある。東北で開かれた宣教の扉が閉じられないよう、ぜひ祈っていただきたい」と祈りを要請した(同年3月31日号)。
§ §
19年に田中さんは心臓の病で亡くなった。宮城聖書教会の代表役員も兼ねて支える菅谷牧師は「田中先生は、震災後もトラウマを抱え、心臓の病も悪化していた」と話す。田中牧師の妻久美子さんが牧会を続けたが、病のため引退した。現在近隣の牧師、宣教師の協力も受けて5、6人で清瀬教会とのインターネット礼拝を継続する。「信徒の皆さんは、定住牧師がいないながら、自ら教会を建て上げていこうと励んでいる。管理、牧会、近隣への伝道に意識を向けています」
2011年3月26日
私の仙台滞在最終日、デボーション誌「マナ」の個所は黙示録4章1~11節。「あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造された」(11節、新改訳第三版)とある。解説には「地上にどのような汚れが広がろうとも、天の神の聖さが変わることはありません」とあった。(つづく)【高橋良知】
(クリスチャン新聞web版掲載記事)
連載各部のリンク
第一部 3組4人にインタビュー(全8回 1月3・10合併号から3月14日号)
第二部 震災で主に出会った (全4回 3月21日号から4月11日号)
第三部 いわきでの一週間 (全16回 4月25日号から8月22日号)