アプリ「聖書プロジェクト」をめぐって、キリスト教の視点で現代のメディア論、テクノロジー論を深めていく。記者=チェイス・ミッチェル
(記事原題:The Bible Project Would Like Your Attention, Please. 配信元https://medium.com/faithtech 数回に分けて掲載予定)

 

前回(6月5日号)はマーシャル・マクルーハンのメディア論に続いて、ジャック・エリュールのテクノロジー論が紹介された。今回はその続き。
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エリュールが自身の著書『技術社会』(1964年、邦訳上下、75、76年、すぐ書房)で論ずる技術の問題点は、生産物の改善や経済発展に技術が組み込まれたことではない。むしろ20世紀が示すように、技術には、人の意図がどうであれ、人の目的意識を方向転換させ、曲げてしまう傾向があるということだ。私たちは自分たちの技術力を、神に与えられた物ではなく自分たちの成果と捉えがちであり、神ではなく自分たちの思う世界の理想をバベルのように評価する傾向にある。そのため堕落した状態の人間はテクノロジーを正しく使いこなすことができないとエリュールは警告する。

 

「技術は人間の深奥まで浸透してきている。機械は新しい人間環境を創造するだけでなく、人間の本質すら変えようとしている。人間の生活環境はもはや人間のものではない。人間はあたかもこの世界が新しいものであるかのように、かれがそのために造られなかった領域に自己を適応させねばならない」(英訳書325頁 ※1、邦訳『下』155頁)。

 

人がテクノロジーを神の目的に使おうとする試みは常に堕落してしまう。それはテクノロジーが本質的に「悪」だからではなく、人が堕落しているからであり、マクルーハンが指摘したように、テクノロジーは人間の身体の「拡張(延長)」にすぎないのだ。

マクルーハンと同様、エリュールは西洋文化が口承から視覚のパラダイムに移行したことを批判し、『言葉の屈辱 (The Humiliation ofthe Word)』(1985年)で「言葉は現代に普及しているものの、その本来の価値を失い、表示画像の付属品としてのみの価値しかない」 (210頁 ※2)と述べた。そして二人とも当時の新しいメディアであったテレビの映像重視に問題意識を抱いていた。

エリュールはテクノロジー、特に映像メディアへの過度の依存を警戒していたが、テクノロジーを摂理のうちにあるが堕落している、神の目的に至るための手段であると考えたのだ。このような観点から、聖書プロジェクトを信仰生活に取り入れるには、聖霊によって変えられた開発者によって作られた裏付けが必要だと彼は示唆している。このようにエリュールは、技術に対して辛辣に批判していたものの、今日の聖書プロジェクトが志すように、教育、政治、環境の領域でコミュニティーと深く関わり、希望に満ちた人物であった。 (つづく)

※1 Ellul, Jacques. The Technological Society. Translated by John Wilkinson. New York, NY: Vintage Books, 1964.
※2 Ellul, Jacques. The Humiliation of the Word. Translated by J. M. Hanks. Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1985.

 

この記事は国際的なデジタル宣教ミニストリー「FaithTech」(フェイステック)が発信する記事サイトから「FaithTech日本」の協力で翻訳掲載します。

クリスチャン新聞web版掲載記事)