Photo by Bruno Reyna

 

前回(9月11日号)はテクノロジーはそれ自体が真理の現れとなっていることを確認した。ジョン・ダイアー氏(ダラス神学校学部長兼教授)の講演録の続き。(記事原題:Where Does Technology Fit in the Story of God? A Theology of Technology for Coders and Artists、およびそのPart2。配信元https://medium.com/faithtech

 

第二の戒めのテクノロジーは、第一の戒めを補完する

 

(前回続き)神の物語に話を戻すと、十戒も物語の一部だ。十戒を見ると、最初の戒めは、誰が神であるかについて書かれている。そして第二の戒めは、その神を表現するためにどのようなテクノロジーを使うのかについて書かれている。

もし私たちの神公認のヤハウェ像があり、どこかで買えると言ったら、その像から伝わるメッセージは、私たちの神は他の神々と同じということを伝えることになる。そして他の神々と同じように扱われるだろう。

この場合、その方法で選択しないことで、第二の戒めのテクノロジーが、第一の戒めを補完していることになる。神について語る方法と自分自身の人生について語る方法において、テクノロジーの選択は非常に重要な点になるだろう。そして、テクノロジーのクリエイターである皆さんには、人々が注目している。あなたが話す内容については、とても詳しいはずだと信用するだろう。

使徒ヨハネでさえ、紙と墨を使った手紙のやりとりなど、当時のテクノロジーに良い点もあれば、対面で話すことに良い点もあると言っている(Ⅱヨハネ1・12、Ⅲヨハネ1・13、14)。

ここでヨハネは「テクノロジーは悪く、対面であれば良い」と言っているわけではない。どちらも私たちにとって重要だと言っているのだ。どちらも人が経験することの一部であり、そこから生まれる違いを知る知恵が必要なのだ。そして、単独で使うべき時と、同時に使うことで足りない部分を補うべき時とを知る知恵が必要だ。

 

人生に意味づいた事や深いつながりを示すような象徴を求める

 

以下記事原文Part2から

 クリエイターが必要とされている

 

テクノロジーは神の真理を伝える上で素晴らしい手段だが、テクノロジー自体もまた私たちに真理という情報を与えてくれている。ここで私が伝えたいことは、クリエイターという存在が人々に必要とされているということだ。

それは何か新しいものや魅力的なものを求めているからではない。しかし深みのあるつながりを求めているからだ。そして聖書の物語こそ、その深みのあるつながりについて教えてくれる。

モーセが山に登り、神から素晴らしい啓示を受けた場面を思い出してほしい。その頃イスラエルの民は長い間砂漠をさまよっていた。心地よく毎日を過ごしていたのとは違い、新しい場所では次に何が起こるかわからない。どこに行けば良いのかさえ分からない。

そんな中、モーセが山に登っていた間、彼らは何をしただろうか。そのような生活にうんざりしていた彼らが取った行動は、創造力を働かせて金の子牛像を作ることだった。

 

(象徴が)無ければ自分で作ってしまう

 

偶像が悪だということはわかっている。しかし人は、自分の人生に意味付いた事や深い結び付きを示すような象徴を求めており、もし無ければ自分で作ってしまう。

モーセは民衆にとって象徴となるものをたくさん受けて山を下った。しかし人は砂漠をさまよい象徴を見失っている時、どこか別にそれを求めるようになる。そして、今まさにコロナ渦の世界全体が同じ道のりをたどっており、人はそれぞれ思い思いの生き方をしてしまっている。

 

コロナ渦で通勤時間がなくなり、生活に何かポジティブな変化があったとしても、人は象徴となるものを求め、時にいら立ちを覚えながら、それでも人とのつながりを探し続ける世界に生きている。人は様々な創造力を働かせ、テクノロジーを駆使して人と人とのつながりを生み出してきた。このご時世で仕事に求められることは、テクノロジーを駆使して人とのつながりを作り、そこから切り離されないようにすることだ。

人は新しいものや魅力的なものではなく、深みのあるつながりを切に求めている。(つづく)

 

この記事は国際的なデジタル宣教ミニストリ「FaithTech」(フェイステック)が発信する記事サイトから「FaithTech日本」の協力で翻訳掲載します。詳しくはhttps://faithtech.com/

クリスチャン新聞web版掲載記事)