木原 活信 同志社大学社会学部教授

…ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。(ルカ7章12~13節)

中学生の時、不登校で苦しんでいたある青年がそれから立ち直るきっかけとなった証しを聞かせてもらった。当時、学校に行けずに苦しんで葛藤していた彼を変えることになったターニングポイントの一つは、たまたま読んだ聖書の記事にみられたイエスの言動であったというのである。それは、ルカの福音書の息子を亡くして悲嘆するナインのやもめへの主イエスの言動だったという。「主はその母親を見て深くあわれみ、『泣かなくてもよい』と言われた」(13節)。実に短い言葉であるが、苦しむ者にとって大きな力となったという。特に、「深くあわれみ」という言葉にハイライトをかけていたのが印象的であった。この言葉を自らの境遇と重ね合わせ、惨めな当時の自分に対してもイエスがあたかも自分に直接語りかけておられるように迫ってきたというのである。
このやもめにとって一人息子は彼女の生き甲斐そのものであったであろうし、その息子の存在が彼女のすべてであったといっても過言ではない。それを失ってしまったのである。なんという悲劇か。よく読むと、「その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた」(12節)とある。つまり周囲が冷たくて同情しなかったわけでもなく、それなりに気をかけ、今流行(はや)りの言葉で言うと「寄り添って」くれていたのも事実である。しかし、それは、絶望の淵にあるこの女性にとって多少の慰めにはなったかもしれないが、決定的な助けにならなかったようである。

イエスの強烈な「共痛」が私たちをも揺さぶる

この状況で、イエスが到来した。別に招かれたわけでもないようであったが、ナインという町に来て、この女性に「深くあわれみ」をかけたのというのである。この言葉はギリシャ語のスプラングニゾマイσπλαγχνίζομαιであり、断腸の想いにかられた身体表現の用語である。本稿のテーマであるコンパッションそのものであるが、口先の同情や、上から目線の憐れみとは真逆である。ルカの福音書では、良きサマリア人の強盗に襲われた人への想い、放蕩息子を待つ父親の想いにこれと同じ言葉が使われている。
文字通り、腸がちぎれるほどに身体全体が傷んだというのである。哲学者ルソーはかつて、コンパッションを説明する際に、檻(おり)に入った赤子を飢えたライオンが食い殺そうとする場面を外から眺めている母親の心境に模して説明した。母親が言葉だけで可哀そうと思うはずはない。張り裂けんばかりに身体全体が傷み、まさに腸がよじれ、ちぎれるような痛みを伴う激しい情動に苛(さいな)まれる。これがコンパッションであると説明した。
「深くあわれみ」(共感共苦)は、まさにその「激しい情動」であり、もっと言うなら「共痛」である。イエスは「棺に触れ」(14節)とあるが、当時のユダヤの律法では、死体に触れることは、、、、、、

2023年01月29日号掲載記事)