震災発生を伝える当時の新聞。写真の左側に類焼を免れた教会が見える

「渉へ あなたが天国へ旅立ってから、30年が経ちました。振り返ると、あっという間とは決して言えないほど、悲しみ、喜び、笑顔、涙のつまった日々でした。あの日、倒壊した下宿の下敷きになって即死したあなたの遺体と対面した時、心に穴が空いたように感じました。でもそこから、多くの方の痛みが沁みてきて、被災地で歌を歌い始めたのです。心の痛みが、誰かの励ましにつながることを、あなたは、命を通して教えてくれました。本当にありがとう。」
これは、亡くなった弟・渉へ宛てた手紙です。小さい頃から仲良しで、読売新聞の記者として内定が決まった時も「お姉ちゃんの記事を書いて、有名にしてあげるな」と言ってくれました。弟は天国に取材に行ったと、今でも私たち家族は思っています。
あの日私は、東京の自宅で、震度1ほどの軽い揺れを感じて目を覚ましました。まさかその瞬間に弟が天に旅立ったとは夢にも思わずに…。その後、大阪の両親ともなかなか連絡がとれず、電話があったのは叔母さんからでした。「ユリちゃん、渉君あかんかった。すぐ帰ってきなさい」。頭が真っ白になり、混乱する気持ちを抑えながら、堺市の実家に戻りました。
翌日、神戸の遺体安置所から、汚い毛布で巻かれた弟の遺体が運ばれてきた時、「心に穴が空いた」と感じました。でも、そこからいろんな人の痛みや悲しみが入ってくるようになったのです。

神の愛の救援物資を届け続けて

この痛みを少しでも分かち合えたら…、そう思って、ある避難所で歌っていた時です。おばあさんがこう言われました。「あんたの歌聴いて、お腹すいてきた」。目の前には、お弁当などが山と積まれていました。「なんも食べたいと思わんかった。おおきに」。この言葉を聞いた時、人はどんなに食べ物があっても、それを口に運ぶ、生きるエネルギーが必要なのだと感じたのです。「心の救援物資を届けたい!」それが、一つの使命となりました。
それから、被災地で歌い続け、その働きがいつしか日本の各地、海外にまで広がっていきました。東日本大震災、能登半島地震、台湾中部地震、四川省大地震…。「地震でも津波でも泣かなかったのに、今日はじめて泣いた」「自殺しようって思ったけどやめるわ」心に残る言葉の数々…。弟の死が無かったら、今まで歌い続けることはできなかったと思います。
2024年秋に10周年を迎えたラジオ関西の番組も、「神戸のラジオ局として震災に関わるパーソナリティーを」とのことでスタートしました。毎週、電波を通して福音をお伝えできる奇跡も、弟の命ゆえです、、、、、

2025年01月05・12日号 10・11面掲載記事)