励まし、癒やし、力を届け続けた30年

阪神淡路大震災で発生した火災で、神戸市では約7千もの家屋が全焼した。その内、激震地の長田区は最多の4千700棟超。オープンバイブル・神戸キリスト栄光教会(菅原亘主管牧師)の会堂は、20~30m先まで来た炎から守られ、地域の支援活動の拠点となった。焼け野原に十字架を掲げた教会堂の立つ光景は、世界中のニュース映像で流された。あれから30年。今教会は震災を知らない世代が半分を占める。今年2025年1月12日の第2、第3礼拝を合同にして、福音歌手の森祐理さんを招いてメモリアル集会が開かれる。

震災発生を伝える当時の新聞。写真の左側に類焼を免れた教会が見える

現在の教会は、震災後同区内で移転して、跡地にはビルが建つ。当時まだ築後7年ほどの会堂だった。
あの朝、菅原牧師はものすごい衝撃で飛び起きたという。自宅は六甲山中腹。一瞬山崩れかと思ったが、まるで巨人が家ごと力いっぱい揺すっているような揺れに、地震だと気付いた。ピアノや冷蔵庫がふっ飛んだ。午後から教会員のバイクに乗って教会に向かい、夕方近くにたどり着くと、教会の周囲は燃え始めていた。
信徒から一人も犠牲者がなかったのは奇跡だった。同教会牧師の小林登代子さんは教会近くのマンションで被災した。ベッドはトランポリンのように跳ねた。飛ばされないように懸命にしがみついていた。近所の大きな商店街は倒壊して、出火した。数日後、避難場所の学校から焼けこげたマンションに入った。「神学書も写真もすべてきれいな白い灰になっていました」と、振り返る。
教会は発災2日目からカレー等の炊き出しを開始した。毎昼食約300食。炊き出し場所の駐車場は被災者の列ができた。避難所では冷たい弁当が続いていたため、温かな食事はとても喜ばれた。炊き出しは5月まで続けて、3万食を届けることができた。
3階の礼拝堂は国内外のボランティアの宿泊場所になった。支援物資の配布場所ともなって、近隣の人々が出入りしていた。周囲が落ち着いた頃から約2年間は、誰もが集える「一服茶屋」として無料開放した。あるとき、信徒の女性がバスで出会った男性からお礼を言われたと話してくれた。「あの長田の教会はいい教会だ。みんなのために色々やってくれて、大変お世話になった」と、喜んでいたという。
震災直後初めての礼拝は忘れることができない。慣れないバイクで走り回って体調を崩した菅原牧師に替わって、小林牧師が司式した。直後とはいえ30人前後が集うことができた。主の祈りを合わせたとき、全員が涙を流していたという。
震災後、教会は信徒が増えて、今は当時の3倍になった。「主の業を行う教会として、人間として、やることをやっただけ。大変なところを通らされたが、でも、みんな明るく楽しく通ったと思います」と、菅原牧師は感じている。
災害に際して、教会の最も大切な役割は、講壇で語られるみことばだと、菅原牧師は確信している。
「メッセージが命。みことばで励まし、癒やし、力をもらう。僕は一度も嘆いたことがない。祝福のメッセージしかしないです」
「大丈夫やで」のことばで、傷ついた人に寄り添い続けてきた30年だ。(藤原富子)

2025年01月05・12日号 10・11面掲載記事)

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