2000年9月24日号《ヘッドライン》


2000年9月24日号
《ヘッドライン》  = 1面 =
★教会数やや増加だが鈍化 西高東低——「クリスチャン情報ブック2001」中間集計から
◎未伝地解消への挑戦:茨城県北部——超教派で4教会が協力伝道
★東海地方に集中豪雨——教会・信徒宅も床上浸水
★<いやしの時代>[21]教会協力によるフリースクールを立ち上げた 原田嘉男さん(下)
★<落穂抄>他宗教の葬儀でも備えられている証しの場
 = 2 面 =
◎<灯火を次代へ>[4]文化の変容と福音派の応答——ラビ・ザカライアス
★カンバーランド長老教会日本中会50周年記念——教会はやみの世に光放て
★<ひと>他者の必要忘れず中国宣教に情熱 カーヴァー・ユーさん
★信州夏期宣教講座:近代日本の「教育勅語体制」に取り込まれていったキリスト教
★<世界の出来事フラッシュ>ロシア、米国
◎<論説>「東京大聖書展」の意義 記・岡村 又男
★<教界の動き>ベプテストメディアセンター、IGM・糸満キリスト教会
 = 3 面 =
★米国・サドルバック教会「成長」の秘訣——「目的主導型教会」の理念と実際 記・上野 五男
★第19回クリスチャン写真大賞 公募
☆2000年秋 キリスト教主義学校大学院・大学・短大ガイド
 = 4 面 キリスト教主義学校特集=
★横浜共立学園:自主性引き出し思いやり養う教育
★横須賀学院:市民に愛されて50周年
★オープンキャンパス拝見:聖学院大学
★都内17校が連帯しフェア開催——危機の時代に目標をPR
 = 5 面 聖書特集=
★聖書の出版と頒布の歴史——毎年、世界中で1億冊以上の聖書を頒布
★出版相次ぐ聖書を題材にした文学作品
★聖書普及事業125年記念式典——日本聖書協会が主催
★中国・敦煌石窟でシリア語聖書発見
★500言語への聖書訳出完成——ウイクリフ聖書翻訳協会
 = 6面 宿泊特集=
★万座温泉ホテル:万座温泉の存在価値は世界宣教
★日本バイブルホーム:教職者の収容と信徒研修に
★大島泉の家:地震の影響はありません
★組織キャンプの先駆けYMCA
 = 7面 =
★お茶の水の橋の下から始まった愛の奉仕——深川愛隣学園創立50周年
★<北から南から>埼玉:川口神召キリスト教会 アフリカの兄姉との賛美CD
★心身病んだとき、神に出会った——女優・泉水美保さん
★十字架と復活モチーフに福音銘菓「ひとつぶの麦」——訪問伝道のおみやげにいかが
★先人の遺書・遺言から新世紀の生き方探る——太田愛人さん東京新聞に連載中
★<召天>ジョー・グーデン氏(元保守バプ宣教師)
★<召天>エミ・シュニドリング氏(元CJPM宣教師)
 = 8 面 =
★<聖書66巻>ハバクク書 契約の神を堅く信じて生きる 記・渋谷 敬一
★<書評>「責任を取り、意味を与える神」宮平 望著
★<新刊書紹介>「民数記?」マシュー・ヘンリ注解書
★<新刊書紹介>「恐れからの解放」マーリン・キャロザース著
★<情報クリップ>催し情報ほか    
 

未伝地解消への挑戦:茨城県北部−−超教派で4教会が協力伝道

違う教団に属す4つの教会が協力して、教会のないところに出て行き伝道する。
しかも、手に携えて配るのは、その地域に近い、これまた別の教団の教会案内の入ったトラクト。
今夏、アジアの青年たちが国籍を超え日本伝道に時間と労力をささげた「ラブ・ジャパン2000」の働きを通して、宣教団体、教団・教派、そして教会と、それぞれの協力関係が広がりと深まりを見せた。
今年、茨城の10の教会が、「ラブ・ジャパン」を通して韓国から6つの教会のチームと、米国ロサンゼルスから韓国キャンパス・クルセード・フォー・クライストの学生チームを受け入れた。
その中で北部の4つの教会(基督兄弟団・羽鳥教会、同・土浦教会、福音キリスト教会連合・石岡キリスト教会、シオン・キリスト・石岡シオン・キリスト教会)は、各教会の周辺だけではなく、教会のない地域へ、教会が互いに協力してEHC(全国家庭文書伝道協会)のトラクトを配った。
7月25日には茨城県鹿島郡旭村に赴いた。 外国から助っ人が来るのに「遠い」なんて言ってられない フォローアップは、チームを受け入れることはできなかったが旭村に近いホーリネス・鉾田キリスト教会が受け持つことになった。
「旭村には2800世帯あります。
きょうは1000世帯に入れたいと思います」4つの教会が、鉾田キリスト教会に集まり、打ち合わせをし、祈って出て行く。
 なぜ、自分の教会の周りだけではなく、わざわざ遠いところで伝道するのか——基督兄弟団・羽鳥教会の伊藤諭牧師は答える。
「役員の中にはわざわざ遠くまで、という声もあったが、チームが韓国という遠いところから来てくれた。
県内だったらどこだって同じだと思って」
自分の教会とは別の地域で他教団の教会案内載ったトラクトを配布 韓国チームを受け入れた4つの教会と、フォローアップをする教会は、同じ団体に属しているわけでもない。
韓国の人々の大きな犠牲があり、教団・教派の、地域の、そして教会間の枠を超えた協力関係が築き上げられていったようだ。
人口密度の低い教会未設置地域を解消するには、1教会、1教団の力では難しい。
教派を超えた協力が不可欠だ、と指摘されて久しい。
茨城県での実践例は、そうした可能性を示唆する好例といえそうだ。

<灯火を次代へ>[4]文化の変容と福音派の応答−−ラビ・ザカライアス

私たちは今、大きな変化のただ中にいる。
考え方も劇的に変化している。
欧米ではポストモダンの時代と言われ、「現代」と呼んでいたものが既に過ぎ去り、かつては進歩を計る基準であったものよりも先に行ってしまった。
世界中の文化は大きな転換点にある。
私の目的は文化の変容の深さと幅広さを理解しやすくし、その後、福音派としての応答を述べることにある。
しかし、ここで私たちが変化の外にいると考えるならば大きな過ちを犯すことになる。
私たちもまた、変化の一部なのだ。
私たちは自分がだれであるのか知らず、急激な進歩の中で自分がどこに位置しているのかも分かっていない。
私たちは文化の変化に巻き込まれている。
生活はあらゆる方向から受ける印象に支配されている。
ここには全くの混乱しかない。
この印象から私たちが切り離されているかのように語ることはできない。
私たちの思考を形作る影響力は取り巻くものすべての中にあり、私たちはそのただ中にいる。
私たちは文化を束縛しているものから逃れることはできない。
むしろ、私たちは変わりつつある文化の影響に完全に飲み込まれている。
文化の影響力や潮流の中で、次の世紀の終わりに世界はどうなっているのか、問わなければならない。
主イエス・キリストの真理とメッセージに対する執拗な攻撃の中を生き残るには、教会はどういう姿であればいいのだろうか。
この問いに対する最善の方法は、前世紀に何が起こったかを俯瞰し、その後で神のことばに答えを求めることだろう。
劇的に変化している5つの分野を取り上げる。 1・無神論の影響 まず第1に、傲岸不遜な無神論がますます傲岸になってきているように思う。
世界を宗教用語を使わずに説明したり、超自然的なことを信じない人々はますます強くなり、クリスチャンの信仰に直接攻撃を仕掛けるようになるだろう。
1900年に死んだ哲学者ニーチェは、牧師の息子で、2人の祖父も宣教に携わっていた。
しかし若きニーチェは神への信仰を失い、「神は死んだ」という言葉を有名にした。
彼は、その結果として考えられる2つのことに言及した。
19世紀に「神は死んだ」ので、20世紀に2つのことが起こると予言した。
その1つは、世界的な狂気が起こることで、2つ目は20世紀が史上最悪の流血の世紀になるということである。
彼の哲学は間違っているが、神への不信仰と人間の行動の論理的な因果関係を予見した。
実際、今世紀に流された血は過去19世紀よりも多く、おそらくはそれまでの19の世紀すべての合計より多いことだろう。
皮肉にも、ニーチェは生涯最後の13年間を狂気のうちに過ごした。
21世紀に入ろうとしている今、ニーチェの哲学は人気を得てきている。
今日、ヨーロッパや北米の大学で、キリスト教のメッセージに対する直接的な攻撃にあう危険なしで過ごすのは至難のわざである。
しかし、前世紀とは1つの意味ある相違があるかもしれない。
ニーチェやスターリンは大胆に自分の無神論を公言したが、その著書を読む多くの人は無神論をあまり真剣に受け止めてはいない。
だが今日は、無神論をまじめに受け取る人があり、前世紀以上の影響がある。
ただ自分から神を否定するだけでなく、その二次的な影響を喜んで受けている風潮がある。
善と悪の存在を明らかにする唯一の方法は、神の存在を受け入れるかどうかにかかっている。
チェスタトンはかつて言った。
「神を信じないことの悲劇は、人が何も信じなくなることではない。
もっと悪いことに、何でも信じてしまうようになることだ」。
これが文化の多くの点で起こっていることである。
前世紀、神が否定されたときに、人間には極端な行動や信念を排除する能力があるとして、その影響を最小限にくい止めようとする努力が試みられた。
しかし今日、知識人は喜んで神を否定するばかりか、その二次的な影響もひどいものだが、何ら恐れるものではないから無視していいと認めている。
(ラビ・ザカライアス氏講演から、この項つづく)

<論説>「東京大聖書展」の意義 記・岡村 又男

この秋、主の2000年に、「キリスト降誕2000年『東京大聖書展』」が開催されることはふさわしく意義あることである。
イエス・キリストが、単なる伝説上の人物ではなく、聖書を通して語られている歴史上の人物であり、聖書の語る福音の事実だからである。
この聖書は、どの書物より古く、どの書物よりも多くの国、民族の言葉に翻訳され、どの書物よりも多く出版され、どの書物よりも多くの人に読まれてきたベストセラーである。
19世紀は疑いの時代と言われ、そのやり玉に挙げられたのが聖書であった。
しかし、この時期に聖書の考古学が発達し、むしろ聖書のさまざまの事実が証明されたと言える。
ある無神論哲学者が「こんな聖書はだれにも読まれなくなり、やがて廃れてしまうであろう」と言った。
しかし、聖書は今も多くの人々に希望を与え、生きるいのちを与えている。
この聖書展を機に、1人でも多くの人々が聖書に興味を持ち、聖書を手にして読んでいただきたい。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)とあるように、聖書が、現代の悩む人々、方向を失い迷っている人々に、足下を照らすともしび、進むべき方向を示す光となることを願う。 聖書と教会 聖書のことばによって人生の光明を見いだした人は多くいる。
しかし、はじめて聖書を読む人にとって聖書は難しく理解しにくいものであることは否めない。
教会は聖書の真理の上に立てられているとともに、聖書の真理を伝える使命が与えられているのである。
私たちの教会は礼拝を中心に、教会のあらゆる集会において聖書が説き明かされている。
しかし、教会に来た初めての人々にとって「むずかしい」という印象を拭うことはできないようである。
教会はもっとわかりやすく聖書を説き明かす責任がないだろうか。
復活の主イエス・キリストが、エマオの途上にあった2人の弟子に「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」とある。
その説きあかしを聞いたふたりは、「道々お話しになっている間も、聖書を説き明かしてくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」と言われている。
私もひとりの牧師として、聖書を説き明かすとき、律法学者のようにではなく、聞く人々の心がうちに燃えるような説きあかしをしたいと願う。
それは人間的な感情ではなく、聖書の著者である聖霊のお働きであることを信じる者である。
主イエスは「聖書が、私について証言している」と言われているように、教会はキリストを証言している聖書の根本目的を見失わないようにしなければならない。
教会はこの時代にキリストを証言するために、聖書を主からゆだねられていることを忘れてはならないのではないか。 聖書とキリスト者 聖書は誤りない神のことばであり、信仰と生活の唯一の規範であると信じることが、私たちの信仰の基本である。
神の啓示の書として、聖書は、神について信ずべきことがらを教え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを与え、人がどう生きるべきかを教える書である。
聖書が信仰と生活の規範であるということは、窮屈な戒律のように考えてはならない。
「みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって、御国を継がせることができる」(使徒20:32)とある。
聖書こそ信仰を育成し、神の国と永遠のいのちを受け継がせることができるのである。
聖書展とともに、教会がその使命を再確認し、私たち自身が聖書の教えに真に生き、あかしする者でありたい。
(記・岡村 又男)